新しい気持ち

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新しい気持ち

 洗濯物がカラッと乾いた時の気分だ。  清潔な布に触れる感触。達成感……何気ない日常に感じる小さな幸せ。  いつもの満員電車に揺られながらも、美優の心は爽快だった。  昨日、久しぶりにぐっすり眠れたこともあるだろう。スッキリ目覚めることができた。このところいつもギリギリで、朝食をとることなく電車に飛び乗る毎日だったが、今朝はゆとりを持って出勤できた。会社の近くにあるジューススタンドで季節のフルーツジュースを頼む。フルーツはこんなに美味しかっただろうか。パインをメインにブレンドされたジュースを頼んだのだが、1つ1つの味わいを舌にしっかり感じる。一口飲むたびにビタミンが身体中に染みわたるようだ。ネットで「マスク生活のメイクは目元にポイントを置くといい」とあったので、明るめのブルーグレーのアイシャドウにしてみた。ちょっと涼しげでいいのではないだろうか。美容室に行くのが面倒で伸ばしっぱなしにしていた髪もどうにかしようと頭の中でカレンダーをめくる。  この半年、何をするにも身体が重く億劫だったのだが、今日は軽やかな気持ちだった。理由はわかっている。すみれとの同居生活が楽しみで仕方がないのだ。  モデルという特別な仕事をしている人は、わがままであったり、素っ頓狂な言動をしたりするのではないかと思っていたが、すみれは折り目正しいごく常識的な女性だった。マンションに招き、美優の考えを伝えた。生活する上の細かいことは子供も交えて改めて決めることにした。写真を見せてもらったが、すみれによく似た美少女だった。子供がいる生活は初めてのことで緊張もあるが、今は会ってみたいという気持ちの方が優っていた。  昨日はお互いの状況についてはあまり詳しく話をしなかったが、美優はなんだか同志を得たような気分だった。状況は違うが、気持ちを分かち合えそうな気がする。  すみれ親娘との同居は今夜から始まる。仕事終わりに駅で合流することになっている。これからのことを想像するだけで笑ってしまいそうだ。 「佐竹さん。夏ギフトのパッケージレポートだけど」  昨日提出していたレポートを朝一で確認した課長が美優を呼んだ。 「はい」  美優は各部署の名刺発注の手を止め、立ち上がった。美優の所属は総務だが、営業が忙しい時はリサーチ業務の一部を請け負うことになっている。レジ袋有料化後の緊急アンケートの集計と分析を任されていたのだ。  美優の勤めている会社は包装資材……それも化粧箱を中心にギフトラッピングまでを扱っている。ファッションと同じく季節を先取りして動くのが常だが、社会の動向によって様子が変わることも多い。包装資材は品物を守るためにも必要だが、見栄えを良くする役割もある。昨今は環境への関心も高まっているので、どちらの商品もエコロジーに配慮する必要がある。マイバッグが導入された時も社会が環境問題への意識が高まり、過剰な包装が問題になった。今年はレジ袋の有料化が始まった。直接美優の会社に関係はないのだが、環境への意識が高まることが予想されるので、包装資材のあり方も変化すると考えられる。生活様式も変わらざるを得ない中、現場の声をリサーチし、今求められているものを提供していかなくてはならない。  リサーチは定期的に行っているが、有料化後の現場の声は貴重だ。夏のギフトの後は、ハロウィーンにクリスマス、年末年始のギフト。そうこうしているうちにバレンタインがやってくる。今のところ大きな変更は見られないが、新しい価値観に対応した商品を打ち出していかなくてはならないのは確かだ。  課長はレポートめくりながら美優の意見を求めた。 「佐竹さんはどう見たの?」 「そうですね。大きな変更はないと思いますが、今後は手提げ箱や、分別のしやすいタイプがよりニーズが出てきそうですね。風呂敷系も注目ですし、検討の価値はあるんじゃないかと」 「そうだね。繊維メーカーさんからも打診があるみたいだしね」 「はい」 「じゃ、これ営業と企画と共有して……」  指示の途中で課長が言葉を切った。  美優は不思議に思い、小首を傾げた。  課長はチラと総務課内に目をやると、美優だけに聞こえる声で話を再開した。 「僕が行ってこようか」 「え」 「いや。営業は……ほら、君の……相川くんがいるだろう。他人のことを噂して楽しむ人間も多い。2人にしかわからないことをあれやこれやいわれるのも嫌だろうかと」 「……気にかけてくれてありがとうございます。そして心配かけてたんですね」 「僕だけじゃない。総務のみんな心配してるよ。日に日に痩せてくし。あ、これはセクハラになるかな⁈ いや、決してセクハラとかじゃなくて! 具合が悪いなら無理せず相談して欲しい。僕にしにくいなら、産業医の先生だっている。週一だけど来てくれてるし。予約もとれるから」  時折おどけながらも美優を気遣う言葉が、ストンと心の中に入ってきた。 「や。余計なお世話だったな。ごめん!」  課長がサイドデスクに置いてあったテッシュボックスを差し出した。美優はボロボロと涙をこぼしていた。課長にティッシュを差し出されて初めて気がついた。自分でも驚いた。  佐竹さんは子供が産めないらしい。  佐竹さんが相川さんを追い出した。  家事放棄が離婚の原因。  よく同じ会社に勤めていられるよね。  社内であれこれ言われているのは知っていた。言わせておけと思っていた。 「私は傷つかない」  何度自分に言い聞かせただろう。そう。亮の仕打ちに、彼女の仕打ちに傷ついてたまるか。好奇の目に、言葉に傷ついてたまるか。 憐れまれたくない、同情されたくない、可哀想な女と思われたくないと気を張ってきた。どんなにきつくても仕事を休まなかったのは、休んだ途端、そういった無責任な噂に負けることだと思っていたし、自分自身に「ちゃんとできないお前に原因がある」と呪いをかけてしまいそうだったから。  美優は差し出されたテッシュで涙を拭った。  ああ。もういいや。  傷つかないように、傷ついていないと自分の心を繕ううちに鈍感になっていた。傷つかないはずがないのだ。でも、美優を気遣ってくれる人はいる。涙がひび割れた心に温かい潤いを与えるように沁み込んでいった。  課長が頭を掻きながら、不用意に聞いてしまったことを謝っていた。 「ありがとうございます。あの……頼ることもあると思います。その時は、その、よろしくお願いします」  美優はペコリと頭を下げた。  席に戻ろうと踵を返すと、総務課の同僚が美優に笑いかけていた。物言わず頷く人。サムズアップをしてみせる人。デスクにそっとコーヒーを置いてくれる人。  美優は笑って見せようとしたが、それは大方失敗に終わった。涙の大洪水で顔があげられなかったのだ。 「じゃ、僕が営業と企画に行ってくるね」  課長がまとめたレポートを持って席を立つ。すれ違いざま、ポンと肩に手を置かれる。気にするなということだろう。  課長が出ていくのと同時に皆それぞれ仕事に戻る。  美優も席に着き、入れてもらったコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせた。コーヒーはミルクたっぷりのカフェオレだった。  デスクの右端に置いてあったスマホのトップ画面にメッセージが届いたと示される。亮からだった。これまでだと気持ちをかき乱されていたが、もう大丈夫そうだ。特に何も感じなかった。メッセージを開く。  昨日の件。もう一度考え直してくれないか。  美優は少し考えて、返信した。  これまでそちらの都合を聞いて十分譲歩したと思います。  支払いはきちんとお願いします。  しばらくしてまたメッセージが入った。  頼む。  業務中にこんな話をされても。美優は思った。やはり課長に甘えてよかったかもしれない。その後も亮からメッセージが届いたが、もうメッセージを開くことはしなかった。
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