3人が本棚に入れています
本棚に追加
素敵な勘違い
そわそわし通しの1日だった。
電車のドアが開くのももどかしく、開いたと同時に改札に向かって足早に階段を降りる。
総務課の課長始め同僚たちが美優のことを気にかけてくれていたことを知り、人間って悪くないと思った。亮と離婚して以降会社も居心地が悪い場所となり、日々の糧を得るために心を無にしてとにかく自分の仕事を全うすることだけを考えていた。だが、亮と出会ったのもまた会社なのだ。価値観が違う人間が集まっているのが会社で、だからこそ多様な意見から前進する力を生み出すことができる。それは家庭も同じ。夫婦なんて元々他人だし、親子といっても独立した人間だ。同じではない。そう捉え直すゆとりが戻りつつある。だからこそ新しい関係に期待が膨らんだ。
すみれとは昨日のカフェで待ち合わせしている。改札前にしようかとも思ったが、すみれ親娘の状況を考えると人目に付きにくい方がいい。そうでなくとも美しい親娘は人目を惹くのに十分な存在感だ。会社を出るときに到着時間を伝えているので、スムーズに合流できるだろう。
小町ちゃんだっけ。仲良くできると良いんだけど。
そんな事を考えながらホームの階段を降りると改札の向こうにすみれらしき背の高い女性が見えた。その横に、これまた背の高い男性がいる。大きな紙袋を間に何やら揉めているようだった。
も……もしかして例の旦那さん⁈
美優はすみれの目の周りのアザを思い出し、血の気が引いた。歩くスピードを上げる。前を歩いていた人をかき分け、ゲートにぶつかる勢いで改札を通り、速度を落とすことなくすみれと男性の間に入った。
「わあっ⁈」
すみれと荷物の奪いあいをしているところに、思いがけない方向から力が加わり、男性はよろけ尻餅をついた。美優は男性の手から紙袋を奪い取る。
「な、何してるんですか⁈」
「何してるはこっちのセリフだっ」
男性が下から美優を睨みつけた。
「これ、マネージャーです! ジョーイ、彼女が部屋を貸してくれる人!」
今度はすみれが美優と男性の間に入る。
「マネージャー⁈」
「家主⁈」
美優と男性が同時に声を上げた。落ち着いて男性を見ると、ゆるくカールした栗毛色の髪にギリシャ彫刻のような彫りの深い顔立ち、仕立ての良いジャケットが彼もまたファッション業界の人間だと伝えてくる。
「あああ……私ったら」
美優が青くなっている所に幼い声が呼びかけた。
「ねえ、ママたち、とっても目立ってるよ」
ハッとしてあたりを見回すと道ゆく人が美優たちに注目している。駅員も改札口で様子を伺っていた。今にも出てきそうな雰囲気だ。目立たないようにと思っていたのに、悪目立ちもいいとこだ。カーッと頭に血が上ってくる。
「こ、ここではなんですから! ウチ……ウチに行きましょう!」
美優は男性を助け起こすと、手を取ったままマンションへと歩みを進めた。
「へー……素敵な部屋ですねー」
ジョーイ・渡辺と自己紹介した男性は、部屋に入るなりそう言った。
「これ、クリムトですよね」
リビングに飾っている絵を見て目を輝かせる。
「あ、はい。リトグラフですけど。好きなんです、クリムト」
「僕も好きなんですよねー」
持っていた荷物を下ろしながらご機嫌に返してきた。
「キッチン、いいですか? いいなぁ、アイランドキッチン。僕、料理が趣味で。憧れてるんですよね」
ジョーイは大きな紙袋をキッチンに運び込む。駅前で奪い取った大きな紙袋の中身は食材だった。ステーキ肉にレタスにセロリ、パプリカに色とりどりのトマト。これまたいろんな種類のチーズにワイン、調味料まで。どれもこれも高級そうだ。
「ジョーイ……図々しすぎる」
「なんで? 引越しのお祝いとこれからよろしくお願いしますのパーティは重要だ。ね、美優さん」
ジョーイは美優ににっこりと微笑んだ。すみれはマネージャーと紹介したが、同業者の間違いではないだろうか。長い手足、鑑賞と実用両方に耐えうる筋肉に、甘いマスク。昨日、すみれを見て、圧倒的な美しさは同性であってもドギマギさせるというのを知ったわけだが、今日もまた人は完璧な美を直視できないというのを実感することになった。
「ジョーイ、馴れ馴れしすぎる」
「僕はすみれのマネージャーで幼馴染で家族同然だし、これから度々顔を合わせることになるわけだから仲良くなるのは早い方がいい」
「僕!」
すみれ親娘が同時に声を上げた。
「ジョーイが気持ち悪い」
すみれの娘、小町が眉をしかめる。
「小町ちゃん、何いってるのかなー?」
「小町ちゃんって! 気持ち悪いっ」
ジョーイの猫撫で声に小町が首筋を掻き始めた。その様子に美優は思わず吹き出してしまった。
「ようやく笑ってくれたー。美優さん、すみれの状況知ってて庇ってくれたんですよね。なんて勇気のある人なんだ。感激しました」
「知らなかったとはいえ、勘違いして失礼しました」
穴があったら入りたいとはこのこと。2人の間に飛び込んだ時の自分の様子を想像する。必死の形相だったろう。美優の早とちりで突き飛ばされたというのに、その本人が感動を伝えてくるというのはいたたまれない。
「私は必要ないっていったのに、ジョーイがついてくるから佐竹さんに気をつかわせてしまった」
すみれが大きなため息をつく。
「お前たちに何かあったら僕がユーリに殺される」
ユーリというのはすみれの実の兄だそうだ。本当の兄妹のようなやり取りに、仲良く育ってきたというのが伝わってくる。
「ジョーイは心配性なんだよ。小町にもいつもいろいろいうの」
小町が美優にぴったりとくっつき、次々と並べられる食材を楽しそうに眺める。ルームシェア1日目からハプニング発生ではあったが、それが逆に美優たちの距離を縮めることになったように思う。
ぐー……と大きくお腹の音が響いた。小町がパッと顔を赤らめる。
「OK。ちび姫ははらぺこだ。美優さん、キッチン借りていい? 今日は僕が腕を振るいますね」
「えっ、そんな。お客様に……」
「キッチン使われるの嫌じゃなければさせてもらえないですか。その間にすみれたちの荷解きをしてもらえるといいかなって」
外国映画で見るようなウィンクをしてみせた。日本人だとキザにしか見えないが、嫌味なく決まるところがルーツを感じさせる。
「佐竹さん、ジョーイは性格はアレですけど、料理の腕は確かなのでやらせちゃいましょう」
「アレってなんだよ、アレって!」
ジョーイは、30分後に夕食開始とヒラヒラと手を振った。
「じゃ、お言葉に甘えてこっちを片付けてしまいましょう」
美優はすみれ親娘をリビングに近い10畳の部屋へと案内した。シングルベッドが2つ並んで置いてあり、こじんまりとしているがウォークインクローゼットが備え付けられている。ここが主寝室というのは誰がみてもわかる。
「2人にはこの部屋を使ってもらいますね。鍵はこれ。外からもかけることができます」
美優はマスターキーと合鍵、2本を手渡した。
「え。でも佐竹さん」
「ここ、夫婦で使っていたんですけど。私は1人だし。こんなに広い部屋はもう必要ないんです。小町ちゃんがいるならこっちがいいでしょう。私の荷物は向かいの6畳へもう移動してあるので気にしないでくださいね」
戸惑うすみれをよそに小町は嬉しそうだ。ベッドに飛び乗ってマットの感触を楽しんでいる。
「ありがとうございます」
「玄関入って右がトイレ。左が洗面所とお風呂。シャンプーや石鹸、トイレットペーパーとかどうしますか? あ。洗濯の洗剤とか、そういうのもありますね。それぞれで準備するのもよし。共有するのもよし。共有する場合は領収書を取っておいて電気代や水道代などと一緒にかかった分を割り勘という感じになります」
「……別々にすると干渉せずにすむけれど、いちいち2世帯分になるってことですね」
「そうですね。食材とかもそうなりますね。冷蔵庫は1台しかありませんが、ファミリー用なのですみれさんたちの食材を入れても大丈夫です。食材始め間違いそうなものには名前を書く必要がありますね」
細かい話だがトラブルを避けるためにはきちんとしておいた方がいい。すみれは迷惑をかけるかもしれないので別にしましょうといった。美優もその方がいいと思った。メモに書き留める。
「掃除やゴミ出しですが、これは当番制がいいのではないかと思います」
「学校みたい!」
自分のキャリーバッグから着替えを出していた小町が目を輝かせた。
「そうね。学校みたいね。当番表を作ろうと思ってます。すみれさんのお仕事は不規則だと思うのでその辺は事前に教えてくださいね」
「わかりました」
「で。食事のことなんですけど。すみれさんの帰りが遅い時とか私が小町ちゃんと食べてもいいですか」
「え」
「あ。アレルギーとかあったら私がお手伝いできることはないんですけど」
「小町、好き嫌いないよ!」
「そこまで負担をかけるのは」
「1人分作るのも2人分作るのも同じですし。凝った料理はできないですけど、まあ、割と普通に食べられるかなと」
すみれは少し考えて美優に1つ提案してきた。
「じゃあ、基本朝食は私、夕食は美優さんというのはどうでしょう」
モデルとしての体型維持のため、朝は早く起きてジョギングなどのワークをしているという。きっと食事もいろいろ気を使っているのだろう。ここはすみれに甘えてしまうのもいいかもしれない。
「わかりました。私ルームシェアって初めてだし、暮らしてみてわかることもあると思います。食事を一緒に取れるならその時にいろいろ話せるかもしれないですね。まずはこれで1ヶ月、やってみましょうか」
「小町、めっちゃ楽しみ。みゆさん、よろしくお願いしまーす!」
屈託無く笑う小町を美優は眩しく感じた。大人の都合で振り回されることもあるだろうに、明るく振る舞う少女が健気に映った。
「お嬢様方。美味しいお料理が早く食べてーって待ってますけど」
基本的なルールを決めたところで食事ができたとジョーイが声をかけてきた。
「はーい。お腹ペコペコ」
小町が飛び出していく。すみれと美優も後に続いた。
うん。大丈夫な気がする。すみれさんもそう思ってくれるといいな。
ジョーイの手料理は何もかも美味しかった。訳ありの女2人。重いスタートにならなかったのは彼のおかげだと思う。
ジョーイが帰った後、お風呂に入り早めに休んだ。「おやすみ」と挨拶をするのが嬉しかった。なんだかんだと緊張していたようで一気に眠気がくる。
眠る前にスマホに亮からメッセージが入っているのに気がついたが、せっかく楽しい気持ちを台無しにされるのは嫌だった。どうせマンションの支払いのことだろう。明日確認しても問題あるまい。返せる答えも変わらないのだから。スマホをそのまま充電スタンドにかけて、美優は眠ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!