黒い気持ち

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黒い気持ち

 たまには明るい色のワンピースなんていいんじゃないだろうか。落ち着いたトーンのミントグリーンのリネンワンピース。色を気に入って購入したものの、いざ着るとなると少し気後れしてしまってそのままになっていたワンピースに袖を通した。  ルームシェアを決めた時に、亮がプレゼントしてくれた服やバッグ、アクセサリー、思い出のある服なども処分した。この服は浮気が発覚して離婚手続きに入るか入らないかの時に衝動買いしたのだが、やっぱり色が気に入っていて手放せなかった。  グレーのレギンスに、太めのベルトをウエストより高い位置に締めるとイマドキなシルエットになった。今日も暑くなりそうだ。髪はバレッタでまとめた。 「みゆさんかわいい~」  ルームシェア3日目の朝。リビングで朝食を取っていた小町の声に迎えられた。 「こら、小町。ご飯食べてる時に大声とかダメでしょ。佐竹さん、涼しげでいいですね。似合ってます」  誰かに褒められるのは社交辞令であっても嬉しいものだ。朝一番にジョギングを済ませてきたらしいすみれが美優の朝食をテーブルに出した。今日は炒り卵と焼き鮭、ワカメの味噌汁にご飯といった和風。 「急いでいる時はおにぎりにもできますから」 「ありがとうございます」  こんなにちゃんとした朝ごはんが食べられるなんて何年ぶりだろう。亮と暮らしていた時は、亮がパン派だったこともあり、トーストと目玉焼きとかジャムとかそんな感じだった。忙しい朝なんてそんなもんと思っていたが、思い返してみると、朝忙しくしていたのは美優だけで、亮は座って食べるだけだった。いろいろやってくれる方だと思っていたが、洗濯機を回すが干しはしない。それで乾燥機能もついたものに買い換えた。荷物は持つが、運ぶだけで片付けはしない。料理は気が向いた時に。棚いっぱいのスパイスは彼が買ってきたもの。美優は使ったことがない。電球を替えたり、瓶の蓋を開けたりはしてくれたが。  すみれはまだ休業中。小町はまだ転校が済んでいないので、こちらもお休み。その間に新しい住処を整えるのだという。2人に送り出されて会社に向かった。  電車に揺られながら亮との生活がどんな風だったか思い出してみる。確かに彼はいろいろやる方だったと思う。他と比べて。結婚した友人や先輩から旦那の愚痴を聞かされるたび「ウチはまだマシだ」と思ったものだ。休日にデートに連れ出してくれるのは、結婚してもちゃんと女性として扱ってくれていると感じられ嬉しかった。実際は浮気を悟られないための行動だった訳だけど、その時は嬉しかったのだ。デートを終えて家に残されていた家事をするのはほとんどの場合美優だったけれど。美優が少し我慢すれば波風立たないのだからと思っていた。  そういった心に降り積もった澱ののようなものの存在から目をそらしてはいけなかったのだが、「これくらいまあいいか」と妥協してしまった。「慣れた」亮との関係を終わらせて、また新しく誰かを探して関係を築き、同じ未来を構築する努力を惜しんだのだ。これについては自分自身にも非がある。そして不満を持ちながらも見ないふりをして解決に向けて前向きに行動しなかったのもまた自分だ。  同棲時代から数えて5年に渡るつきあいを解消する原因が亮の浮気だったので、彼を責めてばかりいたが、共同生活をするうち、美優が嫌われたくない、面倒だという理由で自分の気持ちを飲み込んだり、うやむやにしたりしてきた事が2人の関係を……主に美優の気持ちを息苦しいものにしていたのは多少なりともあると思う。そうでなければ別れを了承しなかっただろう。 この場合、責任は2人にあるといえる。  ぽつぽつとそんな事を考えているうちに会社についた。エレベーターを待っていると、左腕を掴まれてぐいと強く後ろに引かれた。突然の事に声も出せず、ずるずるとエレベーター横の階段まで引きずられた。思い切り腕を引いたがびくともしない。 「ちょ……何」 「なんで無視するんだ!」  声に振り返ると、亮だった。 「離してよ」 「なんで無視するんだ。何度もメッセージしてるだろ」  ルームシェアの件でバタバタしててすっかり返信するのを忘れていた。しまったと思ったが、亮の物言いにカチンときた。つかまれた腕を振り解く。 「返事はしました。約束通りでお願いします」 「それが難しいから一時的に譲歩して欲しいって話だろ」  亮は苛つきを隠さずに美優にぶつけてきた。  一時的に譲歩。譲歩はもう十分しているではないか。離婚の直接的な原因は完全に亮の浮気。それも相手に子供ができての。一方的に離婚を言い渡され、浮気に対する謝罪もそこそこに出て行き、早産だったから慰謝料代わりのマンションローンの支払いを減免して欲しいとはあまりにも身勝手だ。  別れた元妻の気持ちはどうでもいいのか。別れてしまったら、そんな事を気にする価値もない関係になるというとか。どこまで蔑ろにしたら気が済むのか。いや。気が済むとか済まないの話ではない。彼らは人の気持ちを考える事ができないのだ。美優には傷つく心があるとは考えられないのだろう。重要なのは自分の都合だけ。それによって他人がどうであろうと関係ない。  先ほどまで、亮の浮気は数パーセントは自分にも原因があったのではないか、全くなかったとは言えないのではないかと思っていた。期間を決めて減額しようかと、チラと頭をよぎった。よぎったのだが……よくよく考えると子供は生まれてからが本番だ。服1つ取っても、これから10数年は成長しかないわけだから常に買い換える。保育園や幼稚園、小学校と学校に通うようになればさらにお金はいる。部活動に習い事。教育熱心でお受験なんて事になれば子供が1人であっても、亮の給料だけではやっていけないだろう。そうなると減額した分支払い期間は伸び……下手すると支払われなくなる可能性もある。価値が高いうちにマンションを売りたいとなった場合、美優の名義で別の銀行から残金の借り入れをして全額支払い、マンションを売った金で借りた銀行に返し、運が良ければトントン。悪ければマイナス。築年数が経てば経つほど価値が落ちてマイナスになる可能性は高い。  この調子だと一度甘い顔をすると、そこにつけ込んでなし崩しになるに違いない。「子供にはお金がかかるんだよ」と。 「お断りします。私も困りますから。早産だったり、帝王切開だったり大変だったとは思うけど。離婚してもあの人と一緒にいたかったんでしょ? 私の気持ちや人生をズタズタにしてもそれを叶えたんだから。支払いくらいしてもバチは当たらないんじゃない?」  階段の踊り場で……エレベーターホールから少し奥に入るとはいえ階段を利用している社員もいる。朝の出勤時間帯だ。実際横を通り過ぎ階段を登ってゆく。そんな場所でこんな話をし始めたこと、彼のしつこさにきつい物言いになってしまった。亮の表情がさらに険しくなる。亮はフンと鼻を1つ鳴らすと口を歪めて言った。 「何そのカッコ。浮かれて。男か。この前の待ち合わせってのもさ、男だろ。別れて半年でよくやるよ。いや、実は前からいたんじゃないのか。すんなり別れたのも納得だよ」  開いた口が塞がらないというが、まさにそうだった。とっさのことに頭が回らない。鯉のようにパクパクと口が動いた。自分のことは棚に上げてこの言い草。よくもこんな発想ができるものだ。いや、むしろこういう発想ができるから、これまでの行動があるのか。人は自分が取る行動の範囲内しか想像できないのかもしれない。 「子供が生まれるってどんなに大変なのか、お前わかる? わかんないよな。産んだこともないくせに」  うんと言わない美優が腹立たしく、思い切り傷つけたかったのかもしれない。そこには5年という月日を共に過ごしたという思いやりは全くなかった。  腹の底から怒りややり切れなさが湧き上がり、それが美優の言葉を堰き止める。言葉に代わり涙が溢れてきた。それを見た亮が小さく舌打ちをする。 「泣けばいいと思って」  聞こえるか聞こえないかの呟き。  過去のことになったとはいえ、この男に愛情を抱いていたのに。
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