3人が本棚に入れています
本棚に追加
傷つかないように
ちょっと……ちょっとくらいご褒美あげてもいいんじゃない?
美優はケーキのショーケースの中でキラキラきらめくマンゴーに桃、さくらんぼ、パイナップルケーキをぼんやり眺めていた。人気パティシエのこの店は、人気通りどれも美味しく、目に楽しい。
会社近くにある百貨店の地下食品売り場は仕事帰りの買い物客でにぎわっている。と言っても以前のように誰かとぶつかるのがデフォという感じではない。そうであっても店内は混雑気味には違いないし、ぼんやりできる雰囲気ではもちろんない。
ああ。綺麗なもの、美味しいものって人を幸せにしてくれる。辛いことも忘れさせてくれるパワーがある。それがたとえ一時であったとしても。
「いかがいたしましょう」
夏らしく淡いブルーにえんじ色の蝶ネクタイ、ベレー帽をかぶった店員がケース越しに声をかけてきた。
「あ。じゃあ、この季節の宝箱タルトの4号サイズで」
「かしこまりました。誕生日などメッセージは必要ですか?」
「いいえ。自宅用で」
「かしこまりました。ご自宅まではどれくらいの時間でしょうか」
「30分です」
「お会計は税込で2500円となります」
会計をしながら頭の中で夕飯の献立を考えていた。この冬はまった白菜のミルフィーユ鍋のアレンジ、キャベツのミルフィーユ鍋でいいだろう。簡単でお腹いっぱいになるのにローカロリーというのがいい。小町がいるのでミルク鍋にしてもいい。汁物はミルク鍋なら玉ねぎのコンソメスープ。水炊き風なら玉ねぎの味噌汁に卵を落として。ご飯は食べたい人は解凍する。食後のデザートはこれくらいの量なら夜でも大丈夫だろう。すみれや小町は明日食べてもいいし。
マンションの最寄駅に着いた時には段取りも決まっていた。
人の流れに乗って足早に自宅への道を急ぐ。途中にある公園を突っ切ると少しだけ早く着ける。いつもは運動を兼ねて近道しないのだが、今日はデパ地下での買い物で遅くなってしまったから公園を突っ切ることにした。
昼間は子供を遊ばせる母親や犬の散歩、ベンチでゆったりと読書をする老人がいるのだが、まだ早い時間とはいえ日が落ちた後は寂しいものだ。緑に囲まれているせいか。公園に入ると駅前の喧騒が遠くなった。空気も変わったように思う。木々を揺らす風も、ビルから吐き出される排熱とは違い、涼しさを運んでくる。都会だというのにささやかに虫の声がした。ふと、美優は足を止めた。公園は世間から美優を守るシールドのようでもあり、世間と美優を遮断する空間のようにも感じた。ぽろっと涙がこぼれた。
「産んだこともないくせに」
吐き捨てるように言った亮の言葉が、拭いても拭いても拭き取れないシミのように浮き上がってくる。
恋人がいたら。結婚したら。子供が生まれたら。男の子なら。家を買ったら。昇進したら。何かを持ち得たら偉いというのか。人生勝ち組だというのか。何を言っても許されるというのか。その傲慢に傷つけられる方が悪いのか。
仕事中は考えないようにしていたことが、1人になった途端に溢れてきた。
公園を通り抜ける風が遠くのクラクションを運んできた。
美優は涙に濡れた顔を上げた。
手の甲で涙を拭うと歩き始めた。
歩みを止めることは亮や、亮の後ろにいるあの女や、無責任に噂を振りまく奴らに負けるような気がした。彼らの呪いに飲み込まれるような気がした。
マンションに着く頃には涙は乾いていた。
「みゆさん、おかえりー! 夕ご飯何?」
リビングでアニメを見ていた小町は美優を見つけると駆け寄ってきた。
「ただいま。夕ご飯はキャベツのミルフィーユ鍋」
「小町、食べたことない!」
「そっか。キャベツに豚肉を挟んで蒸したの。ゴマだれで食べるのと、ミルク鍋にするのとどっちがいい?」
「ゴマだれ〜〜」
「小町ちゃん、渋いね」
「だってみゆさん、何か持ってるんだもん」
キッチンに置いた小さな箱を小町は見逃さなかった。
「ふっふー。デザートはお楽しみ」
「やった! 小町ね、今日算数のドリル頑張ったんだよ」
「そっか。じゃあ小町ちゃんもご褒美だね」
「みゆさんは仕事頑張った?」
「頑張った頑張った。めっちゃ頑張った」
屈託無く笑う小町に傷ついた心が癒される。見ず知らずの人間とのルームシェアが上手くいくのかと、決めた後にも不安になる事もあったが、すみれ親娘との出会いは幸いだったのかもしれないと美優は思った。ふと、すみれの姿が見えないのに気づいた。
「すみれさんは?」
「ママね、お仕事始まるかもって。ジョーイと一緒に出かけた。夕方には戻るって言ってたけど遅いね」
料理の手を止めてスマホを確認してみる。すみれからのメッセージが入っていた。
急遽打ち合わせが入り、出かけます。
6時頃には戻れると思います。
小町は見たいテレビがあるということで留守番しています。
申し訳ありませんがよろしくお願いします。
メッセージは4時頃に入っていた。すみれのメッセージは、亮からの嫌がらせのような大量のメッセージに紛れていた。亮からのメッセージが届いているのはわかっていた。それを見たくなくてついほったらかしにしていた。小町もいるし、すみれの仕事は不規則なのだから、ちゃんと確認しなくては。美優は反省した。
返信遅くなりました。
家に戻っています。
小町ちゃんはきちんと留守番していました。
2人で夕ご飯食べてます。
気をつけて。
すみれが帰宅すると言っている時間から1時間ほど過ぎているが、仕事を再開するとなると色々あるのだろう。離婚手続きをしていると言っていたし。
小町と夕食を食べて、お楽しみのデザートを味わう。季節の宝箱という名前通り、夏のフルーツがきらめくのかスタートタルトに小町は大喜びだった。こんなに喜びならもう一回り大きなものを買えばよかった。
お風呂に入って、小町と映画を見ていたら9時を過ぎていた。
「続きは明日にしよう?」
「もうちょっとで最後だよ」
「私も明日仕事だし。夜更かししてたらママに私も一緒に叱られる」
「小町、みゆさんと一緒に叱られるならいいもん」
「いやいや。私はすみれママに叱られるの怖いから!」
軽口を叩きながら寝支度をする。
「ママ、遅いな」
「色々準備があるのかな。もう一度メッセージ入れてみるね」
「うん。じゃあおやすみなさい」
小さく手を振って寝室へ入る小町に、美優も手を振る。
女の子って可愛いなぁ。
美優も得ることができたかもしれない命を考える。今は誰かと命を紡ぎたいとは思えなかったが。
小町ちゃん、今、眠りました。
私もそろそろ休みます。
何かあったら遠慮なく電話ください。
すみれへ送ったメッセージが既読担っていない事が引っかかったが、仕事であるならば幼馴染のマネージャーも一緒なのだろうし大丈夫だろう。今日は美優もくたくただった。ベッドに潜り込むとスマホが震えた。すみれからかと思ったが、亮からのメッセージだった。
どこまで人を嫌に気持ちにすれば気がすむんだろう。
くしゃくしゃにされた気分を立て直すために、サンダルウッドの精油を焚く。エキゾチックな香りが部屋を満たし、美優はいつの間にか眠りに落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!