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予感
月のない夜だった。
美優は駅近くの公園……マンションへの近道である公園の真ん中に立っていた。月のない夜のなので、街灯があるとはいえ1人で歩くには勇気のいる暗さだ。そんな中、美優は1人で公園にいた。真夏の夜の、ダル重い熱気が身体にまとわりつく。公園を取り巻く木々はカサリとも動かない。
怖い。
美優はそう思った。
つ……と背中を嫌な汗が落ちていくのを感じた。その感覚が妙に生々しく、熱気の中にいるにもかかわらず、ブルッと震えた。
ふと前を見ると、10メートル程先を歩く人に気がついた。すらっとした女性は子供と手を繋いでゆっくりと歩いてゆく。
すみれさん。小町ちゃん。
美優は声をかけたが、うまく声が出ない。慌てて追いかけるも、重い空気に邪魔されて思うように進めない。まるでクロールをするように両手で一生懸命空を掻く。
すみれと小町は美優に気付く様子はない。早く歩いているようには見えないが、どんどん離されてゆく。息が上がる。腕がだるい。足もこれ以上は動かない。
「待って!」
美優は自分の声で目が覚めた。
エアコンをつけているというのに、全身に汗をかいていた。サイドテーブルの時計を見ると午前5時だった。触らなくてもわかるほど鼓動が早い。
美優はそっと起き上がると、玄関へと向かった。玄関は昨日美優が帰ってきた時と変わらず、小町のグリーンのスニーカーと、美優のパンプスが並んでいた。
フットライトのぼんやりと廊下を照らす。静かにすみれと小町の部屋へ向かう。ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。そっと開けてみる。部屋の電気はついていた。小町は明るい中で寝ていた。まだ3年生だ。慣れない家で1人で寝るというのは怖かっただろう。小町が寝付くまで一緒にいてあげた方がよかっただろうか。すみれはまだ戻っていないようで、一方のベッドは冷え切っているように見えた。美優はそっと電気を消すと部屋を出た。
すみれは戻ってきていない。
先程の夢を思い出し、身体が冷えた。
リビングの時計を見る。デジタル時計の青いライトが午前5時6分を伝えていた。
すみれはジョーイと一緒に出かけたと小町が言っていた。あと1時間待って帰って来なければジョーイに連絡しよう。もしかしたら会社を休むことになるかもしれない。今日は金曜日。週末ではあるけど、今は特に急ぎの仕事を抱えていない。もし休んだとしても連絡が取れる状態にしておけば迷惑をかけることはないだろう。
美優は身支度を始めた。
午前6時15分。美優はスマホを手にリビングの時計の前に座っていた。
先日会ったばかりの、それも数時間しか過ごしていない人物に電話をかけるには躊躇する時間だ。昨日休む前にすみれに入れたメッセージはまだ既読になっていない。いくら不規則な仕事といっても8歳の子供を置きっぱなしにして、美優に一言もなく一晩家を空けるなどあるだろうか。
プライベートな話をしたのは初めて会ったあの日だけ。部屋を共有するわけだから最低限お互いの状況を伝える必要があったからだ。美優も離婚したことを伝えはしたが、離婚の理由は言っていない。すみれもまたパートナーからの仕打ちについて深くは話さなかったし、聞かなかった。誰しも踏み込んでもらいたくない境界はある。だが今はそんなことを言っている場合ではない。美優はファンデーションの下に隠れた赤黒いアザを思い出し、背筋が震えた。
スマホに登録したばかりの渡辺ジョーイの電話番号をタップする。1回、2回……5回目のコールで電話を取った。
「……美優さん?」
ジョーイの、まだ寝ぼけた声が返って来た。
「お、おはようございます。佐竹美優です。こんな朝早くにすみません」
「どうしました?」
起き抜けのボンヤリした口調が明らかに硬くなった。数日前に会ったばかりの人間が電話をかけてくるには早すぎる時間だ。何かあったのだと察しただろう。
「あの、すみれさんがまだ帰って来ていなくて」
「え」
「小町ちゃんからは仕事でジョーイさんと出かけたと聞いているんですが」
「それ、いつの話ですか?」
心臓が大きく鼓動を打った。
「昨日です。私が帰って来たのが7時過ぎで。家から何時に出たかはわかりませんが、夕方には戻ると言っていたそうなので午後の早い時間だと思います」
「昨日は仕事なんてなかったし、俺も連絡してません」
嫌な予感が当たってしまったかもしれない。
「小町はどうしてますか」
「まだ寝てます。でも、昨日は不安だったようで部屋の明かりは点けたまま寝たようです。寝る前にすみれさんにメッセージを入れたんですけど、既読にならなくて。私、5時ごろ目が覚めたんですけど、その時にも戻った様子がなくて」
電話口でジョーイが小さく舌打ちした。
「美優さん、ありがとう。小町についていてくれて。多分、すみれはパートナーのところにいると思います。パートナーって呼ぶのも嫌なんですけど」
ジョーイは苦々しくそう言った。
「そんな。モデルの仕事をしているすみれさんの顔にあんなアザをつけるような人なのに」
「それでもすみれにまだ情がある限りアイツの影響下にあるんですよね。アイツから強く言われると逆らえない」
電話の向こうから深いため息が届いた。
「俺、これからアイツのところに行って来ます」
「ジョーイさん1人で? 暴力を振るう人のところに」
「念のため友人を連れて行きます。本当は事務所の人間と行きたいところなんですけど、これ以上面倒事の多い奴だと思われたら契約切られるかもしれないので」
「ああ……」
「美優さんを不安にさせるような事言ってすみません。すみれは今ちょっといろいろまずい立場なんです。でも連絡くれてありがとうございます。友人もすみれの事は知っているし、俺の道場仲間なんでDV男には簡単にやられませんよ」
「道場?」
「俺、ずっと空手してるんですよね。だから心配しないで」
「わ、私も一緒に」
「いや。美優さんには小町をお願いしてもいいですか。女性がいた方がいい事もあるかもしれないけど、小町に辛いところをまた見せたくない」
いざとなったら警察に頼りますと言ってジョーイは電話を切った。確かにジョーイの言う通り、美優がついて行っても助けになる事はなさそうだ。母親と自分の置かれている状況を理解しているとはいえ、これ以上小さな小町を傷つけるような事は、出会って間もないとはいえ、大人として回避したい。ここはジョーイのことを信じて待つしかないだろう。
7時半には課長が出勤しているはず。預かっている親戚の子供が熱を出したことにしよう。
落ち着かない気持ちで急な休みに対する言い訳を用意する。
スマホの待ち受け画面に通信販売のメルマガの着信通知が表示される。その下に表示されている、まだ読んでいない亮からのメッセージ通知を削除した。
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