憂鬱な箱

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憂鬱な箱

 佐竹美優は仕事帰り、コンビニで麻婆丼を購入したらレジ袋購入の有無を確認をされた。 「あ。買います」  大きなトートバックを抱えていたが、書類やらパソコンやらでいっぱいで弁当が入る隙間はない。入るスペースがあったとしても麻婆丼だとカバンの中で事故が起こりそうだ。レジ袋を購入し、麻婆丼を温めてもらい、その間に会計を済ませ店を出た。  コンビニから美優の暮らしているマンションまでは徒歩3分。コンビニから駅まで徒歩3分。駅から10分以内というのは十分駅近だろう。マンションは築3年。結婚のタイミングで新築を購入した。 「自分のものにならない金を払い続けるより、ちょっと頑張ってさ、2人で買おうよ」  2つ年上の相川亮にこんな風にプロポーズをされたのは、同棲して2年目、美優が29歳の秋のことだった。時折喧嘩もするけれど、同じ会社でお互いの仕事状況も分かっている。高校までアメリカで過ごした亮は合理的で、基本個人主義だ。束縛されることが嫌な美優にとっては居心地が良かった。美優はそれほど結婚願望があるわけでもなかったが、30を前に友人や同僚が結婚してゆくのを見ると、落ち着かない気分になっていた。  2年間の同棲生活の中で、亮に不満があるとすればたまにゴミを出し忘れることと、時々優柔不断になる所だろうか。きちんと働いているし、家のことも普通にする。休日になればデートに誘ってくれ、それぞれの趣味の時間には口を出さない。つまり大方満足していた。かと言って結婚したいかと問われれば、正直少し迷うというのが本音だった。いつでも解消できる同棲と、法的にお互い責任を負う結婚は違う。美優はプロポーズの言葉を聞いて3秒、迷った。3秒間に頭の中では亮とのこれまでが駆け巡った。 「うん。そうだね。2人の家、いいね」  3秒後、美優は結婚を決めた。  でも3年前の選択はやっぱり間違っていたと今は思う。  美優はマンションまでの3分間の道のりを、足元を見つめながら歩く。一歩踏み出すたびにズブズブとアスファルトに足がめり込んでしまいそうだ。トートバックとコンビニ袋の重みと疲れ、帰りたくない気持ちが足取りを重くしていた。 「ただいま」  マンションに着くと、明かりのついていない玄関で挨拶をする。子供の頃からの習慣で、1人だと分かっていてもつい挨拶してしまう。手探りでドア横にある廊下の照明スイッチを探り当てる。蛍光灯の明かりが暗さに慣れた目を一瞬刺す。のろのろとパンプスを脱いでリビングへと向かった。家電製品の稼働音がかすかに聞こえるだけの空間。これまで深海のように静まり返っていた部屋の空気が、美優が混入したことで気だるく動いた。美優はリビングのソファにトートバックを放り投げると、フローリングに腰を下ろしてローテーブルで麻婆丼を開けた。温めてもらったはずの麻婆丼は3分の間にぬるくなっていて、微妙な味だった。最近のコンビニ弁当は馬鹿にできないのだが、美味しく食べられる瞬間を逃すと途端に炭水化物と油の塊に感じてしまう。何事にも旬があるということか。そういうことでいうと、美優は旬が過ぎた女ということだろうか。  亮がマンションを出て行ったのは半年前のことだ。 「好きな人が、いる」  結婚して3年目の冬のことだった。 「は?」 「マンション購入する時に担当だった、篠原さん」  美優の脳裏に、少し背伸びしてパンツスーツを着たベビーフェイスの若い女性が浮かんだ。入居後、会うこともなかったので記憶は朧だった。 「え?」 「手続きのこととか、やりとりするうちに」 「……付き合ってる年数=マンションの築年数ってこと」  亮は美優の問いに答えなかった。その代わり「子供ができた」と呟いた。  その日のうちに亮はスーツケースに少しの着替えを詰め、離婚届を置いてマンションを出て行った。亮の記入すべき欄は全て埋まっていて、押印も済んでいた。優柔不断な性格の男が3年もくすぶって、はっきりした途端捨てられるってどういうことだろうか。  テレビのディスプレイに疲れた顔が反射している。乱れた髪に落ち窪んだ目。丸まった背中。ディスプレイから疲れたおばさんが自分を見つめていた。こんな自分に女を感じろという方が無理な相談なのだろうか。いや。こうなった原因は亮にあるのだ。  さっさと食べて、パックでもしながら早く寝よう。そう思って美優はさらにぬるくなった麻婆丼を口に運んだ。辛味を感じはするのだが、どこか砂を噛んでいるようだった。ふと、コンビニ袋に何か入っているのに気が付いた。チラシだ。他の買い物に遮られ気がつかなかったが、弁当の下に敷かれていたようだ。  サステナブルな社会を目指して。  7月1日よりレジ袋の有料化が始まります。  レジ袋を削減することによって  この小さなコンビニから環境を守り  様々な動植物と共生できる  持続可能な世界を目指します。  マイバックの利用にご協力ください。  どこかから借りてきたような、優等生な言葉が並んでいた。チラシは手書きで、どうやら店舗で作成したもののようだ。店頭でいちいち説明するのが大変だからなのかもしれないし、環境保護に熱意ある店主なのかもしれない。美優はチラシをくしゃっと丸めると、テレビの横にあるゴミ箱へと放り投げた。丸まった紙くずとなったチラシは弧を描いてゴミ箱へと入り、ぽすんっと軽い音を立てた。 「持続可能ね」  美優は鼻で笑った。 「そんなのあるわけない」  環境は変わる。人の心も変わる。1つ変化したら、その1に連なる2も変化せざるを得ないのだ。どの方向に変化するかわからないのに、それを安定的に続けることなんて矛盾ではないのか。  先週、離婚届受理証明書が亮から届いた。離婚届を出してもう半年も経っていて、離婚届受理証明書が必要な様々な手続きはすでに終わっている。それなのに今更送りつけてくるなど、もう美優とは無関係だと言わんばかりだ。優柔不断な亮が取りそうにない行動の後ろに彼女の影を見るようだった。それなのにこのマンションから出ていけない状況に腹が立ってくる。まとまった慰謝料が払えない代わりにマンションを美優に残すことになった。もちろん残っている支払いは亮が負担している。  同じ会社に勤めているので、不本意ではあるが社内で顔を合わせることもある。そして美優たちが離婚して、かつ亮が再婚したことも多くが知るところになっている。好奇や哀れみの目に反抗するのも疲れる。疲れた心身を休ませる場所が、亮とあの女の作った檻のようなこの部屋というのも耐え難い。  ルームシェア……。  ふと、ルームシェアはどうだろうかという考えが浮かんだ。部屋はある。遊ばせている部屋を貸して家賃が入ればその分貯蓄できる。転職活動もゆとりを持ってできるというものだ。 「いいかもしれない」  今まで忌まわしい空間と思っていたこの部屋が急に明るい未来を生み出すツールに見えてきた。美優はトートバッグからパソコンを取り出すと早速ルームシェアについて調べ始めた。
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