アメジストは光る

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 昔から、コンプレックスは多かった。  平凡な顔に癖の一つもない真っ直ぐな髪の毛は人の印象に残らず、最低でも十回は会って喋らないと憶えてはもらえない。お世辞にも容姿を褒められたことはなく、両親からは謝られたことさえあった。  初めてドラッグストアのお化粧品コーナーに向かったのは就活が始まってからで、きっと周りの煌びやかな女子大生と比べたら随分と遅い。ブランドによって謳い文句はそれぞれに違っていて魅力的ではあったけれど、自分には場違いに思えて仕方がなかった。  小さな目も、短い睫毛も、低い鼻も、薄い唇も、何もかもが嫌になって、だけれどどうしようもないのだと、早々に諦めてしまった。何色が似合うかも分からずひたすらに重ねたアイシャドウやリップクリームは、女性としての義務感で身に纏っていた。  そんな私でも、就職した会社で出逢った一つ年上の男性とお付き合いをするようになった。入社して直ぐに私の教育係となった先輩はスーツ姿でも鍛えられているのがしっかりと分かってしまうような体育会系で、だけれど柔らかい物腰は女性社員からうんとモテた。  夏の青空みたいに爽快な笑顔は可愛らしくて、喋りかけてもらうたびに好きになっていった。格好良くて、優しくて、可愛らしい先輩と、目線すら合わせられない私。よく知りもしないままに使い続けているお化粧品に地味なパンツスーツを合わせた私では、社内でも人気のある先輩に釣り合うわけがない。たくさん言い訳を繰り返している内に、諦める気力さえも湧いてはこなかった。  それなのに、入社二年目の春に先輩から告白された。耳まで真っ赤に染めた先輩は、それはもう可愛らしかった。少女漫画で使い古された、所謂キュンと胸が高鳴って、心臓の音が飛び出しちゃうんじゃないか。あの時は本当に、私はもう死んでしまうんだと、冗談でも誇張でも何でもなく、そう思ってしまった。  受け入れるのも、お断りするのも怖かった。先輩と私では月とスッポンで、釣り合うはずがない。どっちの結果になっても、女性社員からのやっかみは絶対にあるだろう。  迷って、悩んで、不安になって。それでも私が選び取ったのは、先輩とお付き合いすることだった。  丸々一週間をかけたお返事に、先輩は抱き付いて喜んでくれた。ありがとうとお礼を言われて、私なんかが、と続けた言葉に首を振ってくれた。君だから付き合いたいと思った、と告げられて、どうしていいか分からずに泣いてしまったのは今ではもういい思い出だ。  周りからの反発はやっぱりあって、覚悟はしていたはずなのに何度も何度も泣いてしまった。一人きりの部屋で泣いて、腫れてしまった瞼をどうにか宥めて出勤する日々が続いて、それでも別れようと思わなかったのは先輩がずっと変わらずに笑いかけてくれたからだ。  職場で先輩と業務について話していたとき、休みの日に二人で出掛けたとき、隣り合ってどちらかの家に向かうとき。色んなところで人の目に晒されて、似合わないとすれ違い様に囁かれた。辛かったし苦しかったけれど、私なんか釣り合わないから言われてしまってもそれは正しくて、当たり前のこと。いつの間にか諦めるようになっていた。  だけれど、付き合って三年目の春に先輩からプロポーズをされて、変わりたいと思うようになった。コンプレックスばかりの容姿だったけれど、先輩の隣で何にも縛られずに笑いたいと、ようやく思えるようになった。 「どうしたらいいんだろう」  ぽつりと、頭半分ほど高い位置にある分厚い肩に凭れ掛かりながら呟いた言葉は、正しく先輩のところまで届いてしまった。雑誌を読んでいた先輩が何かを言ってくることはなかったけれど、少しだけかけられた体重に、続きを促されたんだと分かってしまう。 「マシになるためには、どうしたらいいんだろうって」  大学生の頃、よく隣に座っていた女子生徒はとても綺麗な人だった。緩く巻かれたロングヘアの似合う彼女はいつも赤いリップを塗っていて、真っ直ぐに伸びた背中が惚れ惚れするくらい格好良かった。彼女は自分に似合うものが何なのか、よく理解していたのだ。  思春期を迎える頃には自分の容姿に諦めてしまっていた。コンプレックスはどうにもならないのだと諦めて、どうにかするための努力なんてしてこなかった。それでいいとさえ思っていたけれど、心のどこかではずっと、諦めきれていなかった。 「何を、マシ?」 「可愛くなりたいとか、綺麗になりたいとか、そういうんじゃなくて。もう少し、マシになりたいの」  敬語を外して喋れるようになったのは、出逢ってから三年を超えた夏だった。こうして寄りかかったり、愚痴を溢したり、気が抜けるようになったのは数ヶ月も経っていない。今でもまだ二人きりで出掛けるのは緊張するし、甘えるとか、そういう可愛らしい行動は私には似合わないと思って出来ないでいる。  そういうのも、マシになったら少しは出来るようになるのだろうか。緊張せずに先輩と手を繋いで、あっちに行こうと結んだ手を引っ張って。想像してみても、なんだかぼんやりと靄がかかったままだった。 「可愛くなりたいと思ったら可愛くなれるし、綺麗になりたいと思ったら綺麗になれる。俺もカッコよく思われたいからカッコつけてるけど、どう?出来てない?」 「先輩は格好良いよ!」  膝に置かれていた雑誌はいつの間にか机に移動されていて、先輩は唸るように考えてくれた。軽い口調で冗談をたくさん言ってくる人だけれど、こうして真面目な話になれば途端に深く考えて、どこからも引用することなく自分自身の言葉で話してくれる人だった。流すことだって出来たはずなのに、先輩はどんな小さなことでも向き合ってくれる。容姿や語り口調だけじゃなく、こうしたところも先輩はすごく格好良いと思う。 「でも、私なんかが、」 「それ、禁止だって言ったよね」  私なんか、容姿は平凡でコンプレックスの塊で、喋るのも慣れていない人だと上手く言葉が出てこない。私なんか、いいところなんて一つもない。私なんか。  枕詞のように付いて回る「私なんか」という言葉は、付き合ってすぐに先輩から禁止令が出されていた。私なんかじゃないよ、私だからだよ、と繰り返してくれた先輩に申し訳なくて、なるべく封印しようと思ってはいたものの、どうしたって付きまとう。 「でも、」 「俺の為じゃなくて、自分の為に頑張るんだったら、俺はどれだけでも応援するよ」  私なんか、の次に先輩が嫌がった言葉に、でも、とかだけど、とか、私自身を否定するような接続詞がある。自信がなくて全てを否定してしまおうとする私に、先輩はそうじゃないよ、と優しく抱き締めて宥めすかしてしまう。  先輩のように元々格好良い人は、何をしなくても当たり前に格好良さを持っているものだとばかり思っていた。だけれど、先輩も格好良く思われたいと、先輩自身のために頑張っていたのだ。  もしかしたらと、一番に思い出すのは隣に座っていたあの綺麗な女性だった。八時四十分に始まる一限の授業でも、彼女はどこまでも綺麗に仕上げていた。ぱっちりと上げられていた睫毛も、短く切り揃えられた先で輝いていたラインストーンも、折れてしまいそうなほどに縊れていた腰も、彼女は彼女の為に頑張った結果だったのかもしれない。  元から彼女は綺麗だからと、隣で背中を丸めていた私はどれほど滑稽だったのだろうか。どうにもならないと諦めて、努力しようとさえしなかった。こんなにも格好良い先輩や綺麗な彼女が頑張っている隣で、私はただ卑屈に背を向けていた。 「頑張ったら、なれると思う?」 「なりたいって思ったら、何にだってなれるんじゃない?」  清々しいまでに笑った先輩は、やっぱりどこまでも格好良かった。  それからはもう、心を入れ替えるつもりで頑張った。先輩は絶対に釣り合うようにとか、結婚式の為にとか、そういうことは言わなかった。ただ自分の為だけに頑張れ、と背中を押してくれた。  何から始めたらいいのか分からなくて、だからこそ一から調べていった。義務感を果たす為に購入していたお化粧品を全て処分するときは罪悪感も覚えたが、自分の為だと心を鬼にした。  私なんかが、と今まで避けていた百貨店のお化粧品コーナーには先輩に付いてきてもらって、付き添いでも何でもなく、私の為にコマーシャルでもよく見かけるようなブランド品を購入した。二十六にもなって何が似合うのか分かりません、と泣きつく私にスタッフさんは優しくしてくれて、邪険に扱われないことに酷く驚いた。  言われるがままにたくさんのアイシャドウを試して、生まれて初めてマスカラを使った。自分の顔に似合うように引かれたアイラインは平凡な顔に花を持たせてくれて、たった一つでここまで変われてしまうことに感動した。  自分で選んでいたお化粧品はやっぱり私に合っていなかったらしく、色素の薄い肌はどこか不健康そうで、茶色く色付けた上瞼は腫れぼったくなっていた。だけれど、プロの方にお願いして選んでもらったお化粧品を身に纏った自分は、今までとは比べ物にならないくらいに仕上がっていた。  淡いピンク色と夕焼けを思わせるような鮮やかなオレンジ色を重ねたおかげで瞳は大きく映り、肌も透き通るような血色を帯びていた。色気のなかった薄い唇には背伸びするような赤色が煽情的で、どこを切り取っても私が知っている以上の私を演出されていた。  変わらないと諦めていたはずの自分が、殻を剥ぎ取られるかのように変わっていく。鏡の高さまで膝を曲げている先輩と並んでいても、どこか自然に映っていた。  感動した心に従うように、似合いますから、と選んでもらった全てを購入して、家に帰ってからは何度も繰り返し練習した。真っ直ぐに引けないアイラインも、黒いぶつぶつが固まってしまうマスカラも、太くなりすぎる眉毛も、お化粧とはいかに難しいかを思い知らされた。  お洋服も、初めて店員さんに聞いて購入した。パステルカラーのワンピースは脇が大きく開いていてどうにも恥ずかしく思えてならなかったけれど、心は重りを無くして青空の先まで浮かび上がった。  諦めていたはずの自分が、少しずつ変わっていく。入社当時からパンツスーツばかりだった出社スタイルをスカートにするだけで気持ちが明るくなって、相変わらずに囁いてくる女性社員からのやっかみも真っ向から受けられるようになった。  笑顔が増えたね、と震える指でアイラインを引く私の横で、誰よりも楽しそうに先輩が笑った。ピンク色のアイシャドウは、境目もなく夕焼けとよく似たオレンジ色と交じり合うようにまでなっている。  色の増えた自分の頬を、指で摘まんで引っ張ってみた。丸まった背筋を直そうと意識していても、お化粧をするときはどうしても曲がってしまう。笑顔が増えたと言われても、自分では分からない。だけれど、女性として生まれたからやらなければいけないと義務を感じていたこの時間を、楽しいと思うようになっていた。  楽しそうに、嬉しそうに笑う先輩に向かって自分も笑えば、先輩は意外だったのか驚いたように少しだけ目を丸く開いて、それからいっそ幸せそうに頬を緩めた。 「私の為に、頑張るね」 「じゃあ俺も俺の為に頑張ろうかな」  そう言って隣に座り込んでくる先輩は、少年みたいで可愛らしかった。  今まで何もしてこなかったツケだとでも言うかのように、思うようにいかないことは次々に湧いてきた。違うアイシャドウの色を買ってみても上手く使いこなせなくて過剰な派手さを見せたり、レース生地で編まれたカーディガンは小学生にしか見えない幼稚さをもたらしたりと、一歩進めたと思った矢先に五歩は後ろに下がってしまう。  それでも、嫌になってもうやめよう、諦めてしまおうとは思わなかった。大学生時代に通り過ぎていった彼女たちも、会社ですれ違う彼女たちも、諦めずに頑張った結果として綺麗になったり、可愛くなれたりしているのだ。元々の素質は違うかもしれないけれど、私ももっと、何を気にすることもなく笑ったり、お喋りしたりしたかった。  進んでいるのかいないのか、そんな分からない毎日が続いて、今日で一年が経っていた。ジューンブライドの結婚式に憧れていたのは勿論あったけれど、こうしてウエディングドレスを胸張って着られるようになるまで、一年もかかってしまった。  細やかな刺繍が散りばめられたマーメイドラインのドレスは、私と先輩が揃って一目惚れしたものだった。光が当たって眩しいくらいに輝く半透明の尾びれは長く細く揺れていて、衣擦れの音は鈴のように清く軽やかだ。  束ねた髪の毛を靡かせて手を引いてくれたスタッフさんに続いて、大きな鏡の前に立つ。白よりもなお白いウエディングドレスに、色濃く伸ばしてくれたピンク色のアイシャドウがよく似合っている。  意識しなくても真っ直ぐ伸びるようになった背中は潔いまでに深く開いていたけれど、晒された肌色を恥ずかしいと思うこともなくなった。  この日の為に、変わろうと思ったわけではない。自信を持って、先輩の隣で笑い合いたかった。頑張っているらしい先輩と、頑張ろうねと言い合いたかった。私なんか、と言い聞かせて、先輩には釣り合わないと諦めて、だけれど諦めきれなかった。  別室で着替えている先輩とはまだ、顔を合わせていない。お互いにどんな衣装を選んでいるのかは知っているけれど、こうして着飾った姿は見せていないから緊張する。先輩と並ぶことにここまで心臓を速めているのは、随分久し振りの感覚だった。 「もうすぐ新郎様が来られますよ」  インカムを抑えて何かを喋っていたスタッフさんに告げられても、私は笑っていることが出来た。早く見てほしいとさえ思って、そんな自分がなんだか少しくすぐったかった。  もう一度、鏡に映る自分を眺めた。一年ほど前まではコンプレックスばかりを見つけていたけれど、今ではもう、私にさえ笑いかけることが出来ていた。 「うん、綺麗になった」  晴れの日に相応しい笑みは、何の気兼ねもなく出てきたもの。それにまたくすぐったくなって揺れるイヤリングを触っていれば、真っ白いタキシードを格好良く着こなした先輩が、耳まで真っ赤に染めて可愛らしく笑っていた。
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