恋しない

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 吹き出す汗に恐怖を覚えた直後、僕は目を覚ました。  工事の騒音と扇風機の風音が現実を鮮明にしていく。でも、僕はそれに抗って寝返りする。置いてあるだけの布団に手や足を突っ込んだり、抱いたりして、再度眠ろうと試みた。しかし、額の汗はそうさせてくれない。  仕方なく目を開け、見慣れた天井を見上げる。今日もまた無機質な日になりそうだと思った。  スマホのアラームが鳴る。まだ眠たい状態で聞こえるアラームほどイラつくものはない。かといって、アラームが鳴らずに寝坊してもイラつく。どちらにせよ、昨日の自分が嫌いなのだ。いや、今日の自分も嫌いだが。 ***  二限が終わり、昼食時間になった。いつも通り仲のいい友達と弁当を買いに行き、空き教室でご飯を食べる。  亜紀は最近話すようになって気になっている人だ。おっとりした喋り方と雑で棘のある言葉のギャップがいい。 「私はね、大学なのに制服っぽい服装のやつ死んだ方がいいと思うの」  でも、亜紀には彼氏がいる。だから気になる人止まりなのだ。いくらアプローチしても彼女を奪うことはできない。  それは、僕の経験と知識があればすぐにわかること。僕にはそこまで魅力がないのだから、彼女を浮気の道へ引き入れることはできないし、彼女は僕が話している時に髪をいじる。  入学したての頃から彼女のことが気になっていたが、接点のなかった僕よりも先にサークルの先輩に盗られた。今更接点ができても遅い。おそらく、その彼氏とやらは恋泥棒だ。  彼氏を見たことはないが、僕はその人から亜紀を奪うことはできない。だから、自分の感情を抑えている。それがどれだけ窮屈で息苦しいか、僕自身もよく分かっていない。模糊模糊としていて、だからこそ知らない恐怖がそこにあるようで、でも、これでいいんだと安心しながらも粘ついた納得を呑み込む。  そして、教室の反対側で友達と仲良く食べているのは女王だ。彼女のことはほぼ何も知らない。性格や血液型、学籍番号や名前、声すらも知らない。分かっているのは視覚的な情報、この時間この教室に同じ友達を率いてやってくるということだけだ。友達をまとめて俯瞰している感じから勝手に女王と名付けた。  見方を変えれば、女王は友達の中でも取り残された存在……話についていけてないだけと捉えることもできるが、それは僕の願望の一つに過ぎない。  整った顔も服のセンスもまれに弁当をひっくり返す天然さも、全てが可愛らしい。僕は彼女を初めて見た時から気になっていた。しかし、近づくチャンスもなければ、近づく勇気もない。そもそも、ただ気になっただけでナンパするのは相手に迷惑だ。好きでもない人をその気にさせてはいけない。  だから僕は、彼女との十メートルに自身の好意が擬態していないか目を凝らして探す。が、見つかるはずもない。合計二十時間近く探しているのだ、希望の欠片すら見つからなかった。  蟹みたいに変わった歩き方をすれば、僕に興味を持ってくれるだろうか。ふとした会話から発展し、僕は彼女を好きになる。そうしたら、彼女に近寄る理由も、彼女を想像する理由もできる。とは言っても、彼女の目は決まって僕の隣に座ってる英二に向いているため、そろそろ冷めてしまうだろう。でも、寝る前や授業中のふとした瞬間に彼女を思い出してしまうから、彼女はやはり女王だ。  智子は入学してすぐに仲良くなった子で、すごく明るく元気なため、たまに亜紀みたいに昼食の場に人を連れてくる。人当たりは良いくせに彼氏がいない。本人はものすごく欲しがっているようだし、僕もどうして彼氏ができないのか不思議だ。  彼女の懐の隙間を狙えば、おそらく話が早い。だけど、顔が好みではない。確かに、世間一般的には可愛い顔をしているが、それ故につまらない印象だ。  たまに思わせぶりな言動をとる。一緒に帰ろうだとか、今度水族館に連れて行ってよだとか、袖口を掴んだり、顔を赤らめたり。まさかとは思うが、そんな迷惑な話があっていいわけない。  だから隣に座ってる英二を急かしているのだ。早く智子と仲良くなって、いい感じに告白しろ。急がないと彼氏できるかもよ、と。  最低だ。僕は英二を盾にして智子から距離を置こうとしている。  最低だ。人の好意を迷惑扱いし、自分は"気になっている"という一歩退いて俯瞰して。ただの逃げだって知っているが、開き直っている。たまに彼女なんていらないと思うのも、自分を肯定しているだけにすぎない。  咲いていた。智子の笑顔は花のようで、でもどこか人工的で、量産型で……で。で? それだけで。 ***  結局のところ、僕は都合よく生きたいのだ。亜紀の彼氏に嫉妬するのも、英二にムカつくのも、智子を避けようとするのも、全て自分の願望に反した事実であるからだ。  亜紀に迷惑だとか思われたくないし、かといってもどかしい思いもしたくない。  女王に話しかけたくとも、彼女が僕を通して英二と仲良くなってしまうのが怖い。  智子は好みではないからこれ以上めんどくさいことになってほしくない。  そんな状態に置かれ、立ち尽くしている。動きたくても動けない。誰も好きになりたくない。自分の気持ちに嘘をつき続けなければならない。僕はこうして命を削っている。無機質な日々は自分の考えが創り出す首輪なのだ。  もういっそセフレが欲しいと叫びたいが、それだけで日々が華やかになるわけではない。しかも、セフレが欲しいだけなら智子を利用すればいい。自分だってわかっている。自分が何をしたいのか分かっていないことを。  だから毎夜、寝る間際になって今日(場合によっては昨日)の空虚感が睡眠の邪魔をする。今日は何を得たか、どれだけ進んだか、どのくらい満たされたか。どれも答えは無であった。  隣人の喘ぎ声とベッドの軋む音が響く。初めてセックスを見る小学生のようなテンションになった。しかし、それは一瞬のことで、僕のテンションはボロボロと崩れる心に引き摺り落とされた。  月光をカーテンが遮断して今日もベッドに独り。実家の近くに月光というラブホがあったことを思い出した。  明日は一限から授業だ。生徒を振り落とすような乱雑な授業で、控えめに逝ってほしい。正直な話、単位を落とされるくらいなら、降りようかとも思う。  そんなこんな考えているうちに、僕は薄い眠気に飲み込まれる5cm手前にいた。ここは口の中、舌でもてあそばれているところ。  夜と孤独の寒さが同時に襲ってくる。扇風機の風もひんやりとして、消そうかとも考える。しかし、消したら暑くなるのはいつものことだし、布団を被っても十秒後には蹴っ飛ばしているに違いない。暑いと寒いの境界線に立ち続けることは難しい。  高校の時、汗で透けブラしていた女子を好きになったことを思い出した。下心丸出しで、僕は愚者の象徴だ。そこから芋づる式にチョロそうな女子を好きになったことだとか、意見を否定できない気弱な女子を好きになったことだとか、クラスで一番頭の悪い女子を好きになったことだとか、裏で悪いことをしている女子を好きになったことだか、虐められている女子を好きになったりだとか、いろいろ思い出した。  僕は最低だ。これだから彼女ができないのだ。そろそろ拘りを捨てて智子と付き合うか。でも、その前に英二と付き合うだろうな。何となくそんな気がするし、そうであってほしい。  あともう1cm。恋の距離なら静電気でドキッとしていただろう。でも相手は眠気だ、ときめく間もなく殺ッと逝ってしまう。  他人の恋を見ていると、自分の不純さが目に付いて落ちない。そのせいで、僕には生きる意味があっても生きる価値はないのだと現実を突き付けられる。  そもそも、僕が生きているかどうかも分からない。ここは誰かの夢の中で、僕はその人の想像力の一部でしかない可能性だってある――  寒さに起こされる。外の明るさを理解していながら瞼を上げることはしなかった。そして、ほとんど無意識に布団を探り、被る。その心地良さはすぐそこに控えている一限の存在を否定するものであった。その後の睡眠は快適で、いっそこのまま僕が前世になってしまえばよかったのに。
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