紀ノ川

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紀の川の土手に座って、かれこれ2時間余り、その流れを眺めていた。 今までの20余年の人生で、誰かを嫌いになったことがないのが自慢だった。喧嘩をしても、その人のしたことやその結果が嫌いでも、個人を嫌いになることはなかった。 それなのに、とある人物のことが生理的に受けつけないレベルで嫌いになった。理由は、人間関係についての考え方の相違であり、相手の意見の押し付けに耐えられなかったのである。 人を嫌いになるのは初めてのことで、この嫌いという感情を持て余していた。誰かを嫌いになった自分を嫌いになった。今まで築いてきた人間関係というものが面倒くさくなり、自分が何者かわからなくなった。 人との関わりを捨てたくて、既存の自分というものを捨てたくて、衝動的に旅に出た。なるべく人と会わない旅路。それは、山道に他ならなかった。 台風が過ぎ去った直後の紀伊山地。半袖半ズボンにリュックが一つの私に山に入る支度ではないと見知らぬおじさんが制止していたが、無視した。熊野本宮大社から北に伸びる熊野古道と呼ばれる山道を進んだ。 台風が落としていった雨水のせいで、道がぬかるんでいた。歩きにくい急な山道を休み休み登り、やがて日が落ちた。リュックの中のブルーシートを引っ張り出し、ジメジメする落ち葉の上に寝転がった。夜露が体を濡らし、寒さに震えた。寝ては覚めてを繰り返し、やがて寒さに耐えきれず、朝霧と暗闇で足先さえ見えない中、山道を歩き出した。 最初の山頂についたのは、ちょうど東の空が白白と明け始めるときだった。下界は雲で見えないが、上には雲の切れ間から星が見えた。下界の人間はこの綺麗な星空を見ることができないなんて、ざまぁみろ、と内心で毒づいた。 それから少し行ったところに、湧き水を見つけた。台風効果か、滔々と水が溢れ出ていた。生水に気を付けろ、と脳内のもう一人の自分が叫んでいたが、無視して手ですくって飲んだ。乾いた喉に染み渡った。美味かった。今まで口にしてきたあらゆる水の中でこの水は最高に美味かった。身体が内側から清められるような気がした。 山道に人は誰もいなかった。3泊4日山中に野宿して、リュックの中の僅かな乾パンをかじり、湧き水を飲んで進んだ。気がつくと、自分が嫌い、人間関係が面倒くさい、そういったことを考えない自分がいた。ただ無心で歩き、湧き水を見つけては、湧き水を供給してくれている大自然に感謝しながら喉を潤した。 1000m級の山を2つ越え、3つ目の山には人里があった。高野山である。人々が生きている様子を見て、無性に安心した。あんなに人間が嫌だったはずなのに、肩の力が抜けた気がした。 高野山の大門から町石道に入り、山を下った。小川を跨いだり、岩をくぐったりして、やがて柿畑の中を突き進めば町石道が終わる。舗装された道に車が行き交い、人々が歩いている。 下界に降り立った気がした。 文明の雑踏を通り過ぎ、紀の川の土手に出て草むらの中に座った。 川面を見つめていると、出発前に抱いていた感情というものが、実につまらぬ些細なものに思えた。 どのような感情を抱いていようが、天から地面に水は落ち、山から水が湧き、こうして枯れることない大河が流れる。 この水のお陰で、3泊4日無事に生きながらえることができたのだ。 背後の紀伊山地に合掌した。 もやもやとした思考は、全て水に流れていった。
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