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cene1
ひとを殺すと、自分の名前に意味が宿る。そんな世界が、確かにあった。
違う世界を、あるいはぼくとは違う時代を生きているひとには、それは信じられないことかも知れない。けれど、少なくともぼくが生きていたのは、本当にそういう法則が成立する場所だったんだ。本当だ。神に誓っても構わない。もっとも、ぼくは根源的には信仰とはほど遠い人間なのだけれど。
大勢の敵を殺せば、そのひとは立派な英雄。その英雄を殺せば、それもまた見事な英雄。
もっとも、後者のパターンの面白いところは、殺される側はそこで息絶えなかったとしても、彼らの名は後世の人々に記憶されただろうけれど、殺す側はそうでもしなければ誰の記憶にも記録にも残らなかった、所詮は無名の誰かに過ぎなかった、と言うことだ。
そんな仕組みの中では、誰かと視線があうと、ひとは死ぬ。
それが戦地にて作用する絶対の法則だ、とまでは、ぼくもいわない。けれども、敵兵と互いに存在を察知し合えば、そのとき自分が何の行動も起こさないとどうなるかは、子供でも予想できるだろう。あの前線基地の隅に追いやられた、辛うじてテントと呼べるような宿舎に押し込まれている子達ですら、熟知していることだから。
もちろん、法則や規則というものには、成り立つ上での前提条件とか例外というものが付き従う。例えば、さきにぼくが挙げた法則の前提条件は、その出会ったひと同士のリーチが等しい、あるいは近しいこと。ナイフを持った人間と、それから数メートル隔てて銃を構えている人間。そのどちらが次の瞬間にまだ生きている可能性があるかは、いわずもがなだろう。
だから、実に英雄的な狙撃手である彼女と視線があった場合。
あるいは、一方的に彼女に見つめられれば、その人間は死ぬ。
この法則は、彼女の観測手であるぼくの知る限り、一度だって覆されたことはない。
それこそ、あれは今年の冬の終わり頃のことだから、もう半月前くらいかな。ぼくたちが交戦した相手方にも狙撃手が二人ほどいた。そのとき、彼女の側に控えるぼくは死にかけたわけだけれど、彼女はぼくが撃たれた際の情報をもとに、即座に敵の狙撃手を黙らせてしまった。こちらで相手の弾道を逆算せずとも、弾丸が飛んできた方向なんて、彼女には知覚できていたらしい。
狙撃手同士の戦いですら、この有様。ましてや、射程距離が数百メートルもないライフルを持って行進する大抵の敵兵は、反撃するという権利すら与えられていないのだから、彼らの将来は完全に閉ざされている。
今日もぼくの望遠鏡の中で、敵の身体に紅い花が咲いていく。彼女の弾丸によって。
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