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母親は、いつもお茶葉からお茶を淹れて飲むような人だった。
使う湯呑みもちゃんとお湯で温めて、お茶葉が開くのをゆっくり待ちながら、数人分淹れる時は均等な濃度になるように分けて注ぐ。そしてそれを美味しそうにゆっくりと、息をふうふう吹きかけながら飲む。
その淹れ方の丁寧さにも気づかず、淹れてくれた労力と時間に感謝もせず、味わいもせず、お茶があるのは当然と思いながら一気に飲み干してしまうのが私だった。
目を瞑る。
目頭が熱くなっているのを、隠す必要もないのに、誤魔化したかった。やっぱり、酔っているのだろうか。だったら、もっと楽しい気分になればいいのにと悔しくなる。
繊細さというものに、ずっと、恋い焦がれていた。
人の繊細さというのは、その人の持っている器の目の細かさのようなものに起因していて、私の持っている器は、器というよりは笊で、大きめの小石が素通りするぐらい、とても目が粗い。
人々は皆、色んな器を持っていて、経験や感覚、その時々の体験という流れる川の中からその器で水を掬う。
丁寧な人間や、才能溢れる人というのは陶器のように目が細やかであったり、器自体が大きかったりするから、掬った水は器の中に大量に残っている。
人はその水を飲んで、身体を潤しながら生きていき成長するから、丁寧な人や才能溢れる人は豊かに生きていくことができる。
目の粗い笊しか持っていない私は、川の水をほとんど掬うことができず、いつも渇いていて、餓えている。満たされるということがない。渇いていることに気付いていないことすらある。
だから成長もない。
広大で激しい川の中で、やっとそのことに気付いた私は、取り零してきたものの多さと大きさを理解して愕然とし、気付いても目の開きが大きいままの、何も掬えない笊を手に茫然とした。
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