世界は変わる

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世界は変わる

 それは何の前触れもなく訪れた。  アパートの自室で電話をしている最中、突然声が聞こえなくなった。電話が切れたのかな、と携帯電話の画面に目を向ける。  通話状態になったままだった。おかしいなともう一度携帯を耳に当てる。何も聞こえてこない。 「聞こえる?」とこっちから何度か声をかけるが応答はなかった。携帯が壊れたのかと表面を見渡すが、損傷はなかった。  内部に原因があるとしたら、素人の僕にはどうしようもない。仕方ないから一度電話を切った。それから再度操作し電話をかけ直す。通話状態になった。 「あの、聞こえる?」  自分の言葉に違和感があった。いや、言葉自体は何ともない。先ほども似たような感じがしたが、自分の声がしない。何故だか声が出ない。自分では出しているつもりなのに、自分の耳には届かない。気のせいかともう一度発声する。 「僕の声、聞こえてる?」  やはり駄目だ。耳鳴りでもしたのか。それなら耳にも違和感がなくてはおかしい。携帯を耳から離す。画面には通話終了と表示された。切られたのか。  一体どうしたんだろう。体がどうかしたのか。苦しいところも痛いところもない。体に異常はなさそうだが、自分では気づかないだけなのか。明日にでも医者に行って診てもらおう。  少しすると手に持っていた携帯が震えた。マナーモードだから振動で気づいたが、振動音くらい聞こえてもいいのに。これは本格的にまずい。もしかして夢だったりするのかな。  多分現実なので、着信メールを開く。  ――今から紫郎(しろう)くんの家に行っていい?  そんなメールを見て、僕の具合が悪いと気づいたのかなと頭を過ぎった。僕はいいよと返信しておいた。こんなときなら一人より二人の方が安心できる。  メールを返してから十分くらいした。僕は来訪者を待って床に寝そべっていた。寝返りを打つと、床に置いた携帯が目に入る。光を放っていた。受信してる?  携帯を手に取ると、案の定新着メールがあった。それも数件。  新しいものには、ドアを開けて。そう書かれていた。  ドア? 玄関に向かいドアを開けると、そこには先ほどまで電話をしていた相手、百花(ももか)が立っていた。走って来たのか、少し息が切れていた。百花の家はここから徒歩五分程度。全力で走らないと息は切れないだろう。  宮本百花。僕の彼女。大学に通ってから友人の紹介で知り合い、半年前から交際している。ショートヘアを茶色に染めた、大学生らしい風体。明るい性格でインドア派の僕とは真逆。よく付き合いを保っていられると、我ながら感心している。あと半年も交際を続けたら、自分を褒め称えたい。個人的には一生……。  残りの数件を思い出して、受信メールを表示する。百花からのメールは一分前のものだったが、それよりも前から三件来ていた。五分以上も前から。何でメールを?  疑問に思った僕は百花に訊いた。 「何でインターホンを鳴らさなかったの?」  あ、そうだった。よくわからないけど、声が出ない。口ぱくになってしまった。百花に読唇術の心得はないだろうから、伝わらない。もっとゆっくりじゃないと。  玄関で立ち話も何なので、手振りで百花を部屋に招き入れた。その意志は伝わったようで、彼女は靴を脱いで部屋に上がった。百花はさっきから無言で、口を開こうともしない。よく喋る子だと思っていたんだけど。  百花は僕の部屋にある鞄に近寄る。大学に持って行っている鞄。そこからメモ帳と筆記用具を取り出すと、テーブルの上に置き、女の子座りをして何かを書きはじめた。僕は隣に腰を下ろし、横から覗き、文字を目で追う。  ――紫郎くんは気づいているよね。  えっと、何を?  何を言いたかったのかわからなかった。というか口頭でいいのでは。それとも本当に僕が何も聞こえないことを案じて? だからわざわざ筆談?  僕の顔を見る百花は、哀れんだような顔つきになり、溜息を吐いた、ようだった。  ――信じられないけど、何も聞こえないんだよ。紫郎くんもわかってるでしょ?  僕だけじゃなくて、百花もなのか?  ――さっきインターホン鳴らしても、ドアをどんどん叩いても、メールしても気づかないんだもん。  そうだったのか。百花はずっと僕に到着したことを教えたかったのに、僕はずっと気づかなかった。この状況に百花は危機感を持ったのだろう。僕はそんなもの持たなかった。明日医者に行こうくらいにしか考えがなくて。悠長すぎるだろうか。  僕も鉛筆を握った。  ――携帯が光ってやっと気づいたんだ。というか、百花もなの?  ――電話してたら声が急に聞こえなくなって、おかしいなって思って携帯を耳から離したら落としちゃって。なのに落ちたとき何も音がしないの。音楽プレーヤーを再生しても何も聞こえなくて、テレビを点けても同じ。私、怖くなって、紫郎くんに会いたいって。それで、ここまで来たの。  書き終えた百花は握り損なったのか、鉛筆をテーブルに落とした。次の瞬間、百花は僕に抱きついてきた。    体を震わせながら泣きじゃくっている。多分、声を出して泣いているんだと思う。でも僕には聞こえない。  だけど、何を訴えたいのかは想像できる。怖かったのだろう。自分一人だけがおかしなことになったのではと。僕も同じ状態だと知って安心したんだろう。気が緩んだら泣いちゃった。きっとそんなところ。  僕だってそうだ。百花が来てくれたおかげでほっとした。辛いことを共有できる相手がいてくれたことに。彼女を慰めてあげたいという思いはもちろんあった。    だが、それ以上に僕も不安が拭いきれなくて、つい百花に助けてもらおうと、抱きしめた。百花は一瞬僕を見る。僕が自分と同じ気持ちなんだとわかったのか、安堵した様子でまた身を僕に預ける。  そんな彼女をもっと近くで感じたくて、ほんの少し力を入れて抱きしめる。百花が目を閉じていたから、僕もゆっくりと閉じた。  百花の泣き顔で溢れてきた何も聞こえない恐怖は、徐々に和らいでいった。  何分くらいだったろう、僕らは抱き合っていたあと、布団を敷いて眠りについた。さすがに今日はこのまま百花を帰そうとは思えなかった。    改めて気配を感じていると、風の吹かない森にでも置いて行かれたような静けさに、背筋が寒くなった。  部屋を暗くしてから眠りにつくまで、僕らが考えていたこと――祈っていたことは一致しているはず。  悪い夢なら覚めて、明日からまたこれまでと同様の日々が続きますように。信じる以外の方法を知らない僕は、ただただ天井よりも遙かに高いところにいる誰かにお願いした。
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