第一話 勇気の花

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◇◆◇  空は曇天。  肌にまとわりつく湿気にうんざりする。  ちらちら降る雨は詩音の苛立ちを流してはくれない。  今回は詩音のミスだった。  行方のわからない猫を詩音は探す。  学校帰りの途中から降り始めた雨、出しっ放しの洗濯物を片付けるために不注意な行動をしてしまった。  部屋に猫がいるのにも関わらず、窓をずっと開けたままにして洗濯物を取り込んでいたのだ。  気づいたころには時すでに遅く、猫は窓と詩音の間をスルリと通り抜け逃げ出してしまった。  なんたる不覚。  ビニール傘を広げ、道路を小走りで駆け抜ける。  ぴちゃぴちゃと水は弾け、足が汚れる。  道行く人は透明や、紺、黒の傘を広げ、暗い花が咲く。  もしかしたら神社にいるのかも。  そんな考えがよぎった。  だけど、雨の日に田んぼ道を歩くのはためらう。  田んぼ道を使わなくても、ちゃんとした道から行くことはできる。  もしかしたらまたいじめに遭遇してしまうかもしれない。  だが、流石に雨の日で、わざわざ濡れてまでやらないだろう。  そんな淡い期待を込めて水たまりをふみ鳴らす。  神社は静寂に包まれていた。  ああ、良かった。誰もいなそうだ。  と、思ったのもつかの間、目の前を何かがよぎった。  教科書だ。  何冊かの教科書が水たまりの中へと落ちる。  白かったであろう教科書は泥水を吸って薄汚く姿を変える。  名前を見なくてもその教科書の持ち主は誰だか見当はついた。 「ハハッ! 教科書投げ捨てるとか最高かよ!」 「いいアイデアだろ? ……って、やべーよ。人いたぞ」  複数の男子中学生が現れる。その中には俯いている翼の姿も。  ああ、どうしたものか。  詩音はこの場をどうするか必死で頭をひねらせる。 「君たちここの近くの中学生だよね? 小学校と繋がっている」 「あ……はい。もしかして、卒業生っすか?」  中学校ではなく、小学校の卒業生ではあるが、まあ一緒ということでいいか。中学の先輩と認識してもらった方がこちらも強気に出やすい。中学校または小学校の卒業生とはっきり言っていないので嘘ついているわけではない。  相手が勘違いしただけ。 「まあ、そうだね」  そんな曖昧な返事をする。 「まじっすか! ん? じゃあ、高校生ってことはこいつの姉ちゃんも知ってるんすよね?」 「一ノ瀬空だよね? 同学年だったよ」 「なんだ〜じゃあ、話が早いっす!」  たぶん、気を許したのだろう。黙っている翼とは違い、他の少年たちは饒舌になる。  いじめも隠す気は無くなったようで、詩音の前でも水たまりに落ちた翼の教科書を踏み始めた。 「先輩ももちろん知ってんすよね? ヒーローいじめゲーム」 「ヒーローいじめゲーム?」 「伝説になってんすよ。誰が一ノ瀬空を、ヒーローを、諦めさせるかっていうゲーム!」  なんとも嫌なゲームだ。 「なかなか手強かったらしいっすよ〜、一ノ瀬空」  詩音が知る限り、空は自分を曲げない意志の強い子だった。 「でも、三年生になってやぁっと諦めたんすよ」  だけど、彼女は結局折れたのだ。  ヒーローという憧れを捨てたのだ。 「そんで、一ノ瀬空がヒーローを諦めた最後のきっかけってなんだと思いますー?」  ニヤニヤと少年たちは意地汚い笑みを浮かべる。 「お前がヒーローを完全に諦めないと、来年、お前の弟が、卒業するお前の代わりになるからな。そう言われて、コロッとやめたらしいっすよ〜!」  翼を囮として使ったのだ。  卑怯な手だ。  そして、この前、空に会った時のあの違和感の正体に気づいた。  ああ、彼女はヒーローを諦めざる得なかったんだ。  諦めるには程遠い、明るく元気な少女だったが、どうしようもなかったのだろう。  詩音は翼に目をやる。彼は下唇を噛み、顔を歪ませていた。  しかし、だ。今、こうして翼はいじめられている。 「でも、一ノ瀬空もバカですよね〜。そんな口約束を本気で信じちゃうなんて」  所詮はそんなもの。  ヒーローを諦め、弟を選んだ空の気持ちは、結局は彼らに届かない。あまりにも愚かだ。 「そうだね。確かにバカだね」  詩音も笑みを作り、同調する。  翼が何かを訴えるような目で見つめてくるが関係ない。 「私ならそんな選択しないよ」  見捨てるように詩音は翼から視線を逸らした。  雨が強くなり、雨音が他の音をかき消す。  我慢してこの空間にいることにうんざりしてきた。 「じゃあ、私はそろそろ行くね」  こんな時は立ち去るべきだ。  詩音は少年たちと翼に背中を向け、小さく手を振る。 「またね」  呟いたその声が届いたかは分からない。  だが、別にいい。  言葉にすることに意味があるのだから。  スカートのポケットに入れてあったスマートフォンを強く握り締める。  そうだ、言葉にしないと何も始まらない。  何かを捨てるように、  何かを決意するように、  何かを取り戻すように、  詩音は翼に背を向けて雨の中に消えていった。
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