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◆◇◆
心の拠り所があるとしたら、おれにとってそれは過去の思い出だろう。
たとえそれが今は無いものだとしても、おれを支えるには十分なほどの光があった。
中学校に入ってから小さな嫌がらせがあった。それは姉がヒーローという馬鹿騒ぎをしていたから、弟のおれにまで目がつけられたのだろうと自覚はできた。
最初はまだ良かった。
いじめというには激しくなく。いじりというには優しくない。
グレーな状態で、それがいじめと実感したのは時間がかかった。
一年、二年、三年と学年が上がるにつれ心が、体が悲鳴を上げ始める自分がいた。
家でヘラヘラしている姉、ヒーローごっこという原因をつくった姉をひどく恨んだ。
何も知らないくせに、楽しそうに過ごしやがって。
中学三年生。
流石に家族に黙ったままでいるのに限界がきていた。
この年になって親の力を頼るのは正直嫌だった。
だけど、もう諦めてしまおうか。
そんな矢先におれは初めて姉がいじめられていたということ、姉がヒーローをやめた理由を知った。
正直、おれは中学に入るまで姉が周りから浮いていたということを知らなかった。
何も知らなかった。
そして、姉はその事実をおれや家族に悟らせずに中学時代を乗り越えたということだ。
姉は一人で耐え抜いたのだ。
もし、ここでおれがいじめられていると告白したとしよう。
今まで姉が耐え抜いてきたものを全て無駄にするのではないのか?
姉はヒーローになりたいという夢があった。
愚直で眩しい夢を姉は疑うことなく叶えようとした。
いじめられてもそれだけは絶対に譲らなかった。
だけど、姉はそんな大切な夢を捨てたのだ。
こんなおれを守るためだけに。
しかし、結局は約束なんて無視されて、おれはいじめられた。
だから、おれがいじめられているなんて知られてはいけない。
それに、だ。
姉は中学卒業まで耐え続けたのだ。
姉ができたのに、おれは逃げ出すのか?
そんなことできるわけがない。逃げ出してはいけない。
おれはこれを秘密として家族に、特に姉にはバレてはいけない。
……そんな矢先にこの秘密を共有する相手ができた。
野原詩音だ。
姉の幼馴染で、おれの友人で理解者だった女の子。
小学生だった頃の面影を残す髪型、容姿、声。
昔の時のような弱気で泣き虫なところは流石に影を潜めたが、心許せるあの頃の少女が高校生となって現れた。
本人は助けられず隠れていてごめんと謝っていたが、そんなことない。
嬉しかった。
姉はあの頃の姉ではなくなってしまった。だが、彼女は、野原詩音はあの頃のままでいてくれた。
次また会おう。また今度。
おれたちの秘密基地、古びた神社で、彼女と約束した。
この約束が崩れかけていた思い出を取り戻してくれた気がした。
だけど、ああ、結局は彼女も他人だと、思い知らされた。
降り続く雨の中、おれは傘もささずに呆然と上を見上げ、座っていた。
周りにはぐしょぐしょに汚れた教科書、カバン。
自分の制服も、自分自身もそれに負けないくらい汚れているが、気にならなかった。
いや、もう、どうでもよかった。
『そうだね。確かにバカだね』
彼女の声が頭の中で何度も繰り返される。
浮かべた笑みは冷ややかで、おれをいじめている奴らだけでなく、おれ自身にもその笑みは向けられているような気がした。
『私ならそんな選択しないよ』
泣きながらおれを心配する友人の姿ではない。そこにいたのは、ただの他人。
おれは彼女に何を期待していたのだろう?
おかしい話ではない。自分が勘違いしていただけ。
彼女はおれと同じ思いをしているわけではない。
おれにとっては宝物である過去の思い出も、彼女にとってはただの記憶なのだろう。
「にゃー」
雨音とは別の音がどこからか聞こえた。
「……猫?」
そう、猫。
林の陰から真っ黒な猫が姿を現した。
この猫をおれは知っている。
詩音の猫だ。
猫を見るたび、彼女の冷めた顔が蘇り苦しくなる。
『猫に言いたいこと全部言っちゃいなよ。言葉にするのが大切なんだよ』
しかし、同時に詩音のそんな言葉を思い出した。
「言いたいこと……」
言っても良いのだろうか?
きっとおれの言いたいことは誰かを追い詰めてしまうもの。
『それにさ、猫は猫だから他の人に告げ口できないから大丈夫!』
ああ、そうだ。
目の前にいるのは所詮猫。
言いたいことを言っても許されるだろう。
今までの思いを吐き出すように、おれは震える口を動かした。
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