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◇◆◇
詩音は人を待っていた。
強く降り続ける雨の中、ただじっと彼女が来るのを待った。
かすかに水を踏む音が聞こえる。
その音、聞こえて来る人の呼吸とともに大きくなる。
「来たね、ヒーロー」
短いスカート、茶色の髪、化粧で華やかさに拍車がかかった整った顔。
ヒーローと呼ぶにはあまりにも不相応な姿をした少女が詩音の前に現れる。
「詩音……。来たけど、これってどういうこと……?」
疑問だらけで困惑の表情を隠しきれない少女、空は問うた。
空は先ほどの電話のやりとりを思い出す。
『もしもし?』
『空ちゃん、詩音だけど、今、家の近く?』
『今は学校帰りで電車乗ってるよ〜もうすぐで駅に着くよ! もしかして、遊びのお誘い?』
『ううん、別のお誘い。ねえ、空ちゃん、もう一度ヒーローを目指してみない?』
『えっ?』
『秘密基地だった神社に急いで来て。手遅れになる前に』
そうして、切られた電話は空を動かすのには十分だった。
詩音と空が今いる場所は神社の少し手前。
空はこの先、神社に見てはいけないもの、見たくないものがあるような気がした。
「じゃあ、行こう、ヒーロー」
少し戸惑う空を見て察したのか、詩音は無理やり手を引っ張り空を連れて行く。
「ねえ、なんで、今更ヒーローなんていうの!? もう卒業したって言ったじゃん!」
「卒業したって本当なの?」
「何言ってんの!? 意味がわからないよ!」
「つーくんのために、仕方なく辞めたんでしょ?」
「っ! 何で、翼の名前を出してくるの……!? 誰から聞いたのっ!?」
「……そろそろ着くから静かにして」
詩音は空の質問に答えない。
だけど、これから向かう先にその答えがあるとでもいうように、詩音は空を導く。
雨は弱まる様子もなく激しく降り続く。
肌に触れる雨水は夏に近づく季節だというのに冷たい。
そんな冷たい雨の中に影が一つ。
「翼……?」
雨で地面がぬかるんでいるというのに、翼は呆然と地べたに座っていた。
そして、空は気づく。気づいてしまった。
翼の周りに落ちているカバン。泥だらけの教科書。汚れた制服。彼の体に刻まれた痣や傷。
ああ、彼はいじめられていたのだ。
翼の光のない瞳には見覚えがあった。
あの瞳はかつての自分だ。
「つーくん、学校の子たちにいじめられていたんだ。それを、一人でずっと、空ちゃんみたいに耐えていたんだ」
翼がいじめられているとは思わなかった。だって、自分が解決したはずだったから。
翼がいじめられてとは知らなかった。きっと、自分が一人で耐えたと思って彼もそうしたんだ。
「ち、がう。あたしは一人で耐えてたわけじゃ、ない……」
だからこそ、空は苦しかった。
自分のせいでいじめられた翼。
自分のせいで本当に一人で耐えてた翼。
「そうなんだ。空ちゃんは誰か支えてくれた人がいたんだね」
詩音や翼が知らないだけで、空には誰か心の支えとなった者がいたのだろうか?
「じゃあ、つーくんは空ちゃんとは違って支えてくれる人もいなかったんだね。ずっと独りで耐えていたんだね」
空が悪いわけではない。
だけど、詩音の言葉は空を責めているよう。
「にゃあ」
鈴の音のような凜とした鳴き声が聞こえた。
林の影から現れた真っ黒な猫が翼に寄っていくのが視界に入る。
黒猫を抱きしめる翼の姿は、まだ自分よりも背が低く幼かった時の彼の姿と重なって見えた。
「空ちゃん。それを知った上で、君はもう一度ヒーローを目指そうとは思わないの?」
「あたし、は……」
声が震える。視線を地面へと向ける。
戸惑いが、恐れが、その問いの答えを出すのを妨げる。
だから、最後に空を動かしたのはヒーローを求める声だった。
「助けてよ……助けてよ、ヒーロー……!!」
言葉はボロボロの羽のようだけど、それは空に届いた。
「もう、これ以上は耐えられないよ……! 限界だよ……! 姉ちゃんは耐えられたけど、おれはもう無理だよ! 戻りたいよ、戻りたいよ! 姉ちゃんと詩音ちゃんと一緒にバカやったあの時間に! 姉ちゃんがまだヒーローだったあの頃に!」
空は顔を上げる。翼を見る。
翼は空にも詩音にも気づいていない。
彼は腕の中にいる黒猫に本当の言葉を伝えている。
「…………ねえ、ヒーローってのが本当にいるんなら、お願いだよ、お願いだから、」
だけど、その言の葉は届き、空の足を動かした。
顔に当たる雨水だって気にしない。
跳ね返る泥水だって気にしない。
「助けてよ、ヒーロー!!」
だって、一ノ瀬空はヒーローだから。
雨が止まる。
違う。翼の周りだけ雨が降っていないだけ。
「呼ばれたから、助けに来たよ」
空がパステルカラーの傘を翼の上に広げていたからだ。
淡い水色の美しい花を咲かせる。
「だけど、あたしはまだ完璧なヒーローじゃないからさ、空まで飛べないんだ」
空は鞄からタオルを取り出し、濡れた翼の頭に被せる。
「だから、さ。あたしが助けて上げるから、その翼であたしを空まで飛ばせてよ」
屈託無く笑うその姿は昔の彼女と重なった。
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