第二話 愛の花

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◇◆◇  一ノ瀬空と一ノ瀬翼の祖母は変人と呼ばれている。  その原因は彼女の発言と行動にある。 「あたしゃ、悪い奴を倒すのが使命なんだよ」  そう言って、地元で有名な教育ママの家庭に殴り込みに行ったことがあったらしい。 「あたしゃ、無敵さ。誰にだって負けやしない」  そう言って、スコップ片手に山に行き、熊と戦ったことがあったらしい。  どれも近所で流れる噂らしいが、実際に空と翼は例の教育ママが苦情を言いに我が家に来たことがあったらしいし、泥だらけになって祖母が山から帰ってきたこともあった。  だから、空と翼の両親は祖母の奇行に手を焼いていたし、ウンザリしていた。  翼自身、両親に迷惑をかける祖母を快くは思ってなかった。  しかし、空は違った。  祖母が話す偽りだらけのお話も、予想のできない行動も、いつもキラキラと瞳を輝かせていた。  家族の誰も近づきたいとは思わない祖母の部屋もよく訪れていた。  空がヒーローになりたいと騒ぐようになったのは十中八九祖母が原因だろう。  そんな破天荒という言葉を擬人化したような祖母でも老いには勝てなかったらしい。空が中学校一年生、翼が小学校四年生の時には身体に不具合が生じたり、病気にかかったりと入退院を繰り返すようになっていた。態度は相変わらずのホラ吹き婆さんの名が恥じぬ変わり者っぷりだが、時折痛そうに歪める顔やさらに痩せ細っていく身体を見てもう長くはないなと空も翼も感じ取っていた。  そして、空が高校生、翼が中学生になった夏に静かに息を引き取った。  突然の不慮の事故で亡くなったわけでもない。前々から予兆はあった。もちろん悲しくはあった。葬式の時は空は大泣きしたし、翼だって泣いた。  だが、祖母の死を引きずることなく当たり前のように受け入れている自分たちがいることも確かだった。  むしろ、よくあの歳まで元気に過ごしたなとか、すごい人だったなとかといった、清々しい気持ちにすらなった。人が亡くなったというのに不謹慎な考えだと非難されそうだが、棺に眠る祖母があまりにも気持ちよさそうに寝ていたからというのもある。生きている時は強烈なまでに良くも悪くも存在感があり、死ぬ時は後腐れなく潔くこの世を去った。  それが、空と翼の祖母だった。  翼にとっての祖母はそれで全てだった。しかし、空はそれだけではなかったのだろう。  祖母の影響を色濃く受けていた空。彼女は祖母からあるものを託されていた。  それが、顔も知らない誰かからの手紙だった。  拝啓、お母さん。  元気にしていますか?  私は元気です。  今日はクラスの人たちに水をかけられました。バケツいっぱいの水です。しかし、あつかった日だったので、すぐにかわきました。冷たくて気持ちよかったから問題ないです。  だけど、くやしかったので、そうじの時、ぞうきんで使った水をかけて仕返ししました。  私は大丈夫です。  だから、心配しなくていいです。  あの時はごめんなさい。  気にしてないから。大丈夫だから。私が悪いから。  だから、ごめんなさい。    彩夢 「うわぁ、なんか、暗い手紙だね」  例の手紙の中身を見て、詩音は引き気味にその感想を口にする。  どうやらその手紙が一番最初の手紙らしく、これ以降の手紙はほとんど全て、似た内容。近況報告。いじめとその報復。そして、大丈夫とごめんなさい。  うららかな春のような淡いパステルカラーの花の便箋とは対照的に内容は、太陽のない真冬みたいに暗くて冷えるような内容だ。全部を読むと行き場のないモヤモヤした感情が膨らみそうだったので、詩音は二つ目で読むのを諦めた。  しかし、翼は他人事とは思えなくて念入りに一つ一つ読んでいた。 「手紙を書いた当時、彩夢さんはまだ中学生だったけど、今は女子大生で都内の大学に通っているみたいなの」 「……ふーん。てか、この手紙を書いた彩夢って人と、空ちゃんのおばあちゃんがどう関係あるの?」  この手紙を見た限り、彩夢という女性と空たちの祖母には共通点が感じられなかった。  なにせ手紙の受け取り人は「お母さん」と明記されている。詩音は心の奥底で違和感がドロドロと渦巻いているのを感じた。この手紙に嫌悪感を抱いてしまう。 「おばあちゃんは、彩夢さんのお母さんの代わりに手紙を預かっていたの」 「お母さんの代わりに?」  なんで? と、問いを続けようとした時、空の答えで詩音は言葉を詰まらせた。 「彩夢さんのお母さんは亡くなっちゃったの」  どこか遠くで聞こえていたひぐらしの鳴き声が妙なほど響き渡っている気がした。  詩音と、空と、翼の間に流れる沈黙を沢山の虫たちがかき消す。 「じゃあ、なんでわざわざ死んだ人なんかに手紙を書く必要があるの?」  うるさいほどの生命の大合唱に割って入ったのは、ひんやり冷たい声だった。 「詩音ちゃん……?」  詩音の言葉に翼は戸惑う。いつもの朗らかな雰囲気の詩音が、今だけは影を潜めていた。  今、翼の隣にいるのは深淵のような暗い暗い瞳をした知らない少女。  普段とは違う詩音の様子に翼は違和感を覚える。  その違和感の正体を知りたくて翼は問いかけようとする。だけど、それは叶わなかった。 「苦しいからに決まってるじゃない!!」  一瞬訪れた背筋をなぞる寒さも、肌にまとわりつく蒸し暑さに塗り替えられる。  空は怒りをあらわにしていた。 「彩夢さんはいじめられてて、その上、大好きなお母さんが亡くなって、苦しくて、手紙を書くのが心の支えだったの……。いじめられている時、それを聞いてくれる人がいないって苦しいんだよ?」  詩音はいじめられる苦しさを知らない。でも、空たち姉弟は知っている。  苦しさを知っているからこそ、心の支えの大きさを知っている。  だけど、知っているのはいじめられる苦しさだけ。 「いじめられることだけでもすごく辛いの。だけど、彩夢さんはその時、お母さんまで失ったの。ねぇ、その辛さはもっともっと苦しいと思わない……?」  たしかに故人に向けての手紙は歪なのかもしれない。でも、彩夢という少女にとっては必要不可欠なことだったのかもしれない。  その気持ちを理解できるのだろうか?  彩夢自身でない限り理解はできない。空も翼も、もちろん詩音だって。  ……いや、それ以前に詩音は理解する気もないが。  だが、理解する気はなくてもそれを否定するのは違う。詩音は自分の零れ落ちた失言を撤回する。 「ごめん、空ちゃん。無神経なことを言って」  フッと綺麗な笑みを浮かべ、いつもの穏やかな詩音に戻る。 「いや、あたしも怒鳴ってごめん……」  詩音の笑みにつられ、毒気が抜かれたように空も素直に謝る。  翼はホッと胸を撫で下ろし、話を戻す。 「それで、おばあちゃんが彩夢って人とどう関係あんの?」 「ああ、それだけど……あたしが中一の時、おばあちゃんは体調悪くて、よく病院に行ってたの。その時、病院近くの公園のお花畑でおばあちゃんと彩夢さんが出会ったの」  空の祖母が散歩がてらに公園に行くとお花畑でうずくまって泣いている人物がいた。それが、彩夢だったらしい。 「何で泣いているのかおばあちゃんが聞いたら、彩夢さんはお母さんが亡くなったって答えたらしいんだって」  母親を亡くしたばかりで、彩夢は母親との思い出の場所でもあるそのお花畑で感情を爆発させていた。  だけど、その爆発させていた感情は悲しみだけではない。 「それに、彩夢さんはお母さんが亡くなる前に、お母さんに酷いことを言ってしまったらしいの」  ぬぐい切れない後悔と怒り。それらが彩夢を苦しめていた。  非難の言葉じゃなくて、もっと感謝の言葉を伝えていればよかった。もっと、優しくしていればよかった。もっと、素直になればよかった。  母の死だけでなく、伝えてしまった言葉と伝えられなかった言葉に彩夢は過去を憎み、固執した。  だから、空の祖母は提案した。少しでも和らぐようにと。 「おばあちゃんは彩夢さんに手紙を書くように言ったの。おばあちゃんは自分が亡くなったときにその手紙を代わりに彩夢さんのお母さんに届けてあげるからって。今からでもいいから伝えたいことは言葉にしろって」  自分の命がもう長くはないから、できること。  それからこの歪な手紙のやり取りが始まったらしい。  公園の真ん中にある東屋の椅子の裏に手紙を隠し貼り付けて、それを週に一度、病院に行く日に空の祖母が受け取る。そして手紙のお返しに一輪の花を置く。  彩夢と空の祖母とのやりとりは、当時中学一年生だった空が中学三年生になるまで続いた。  空が祖母の代わりに手紙を受け取るようになったのは祖母の体調が悪化した中学三年生の春。空がヒーローを辞めたすぐ後のことだった。 「おばーちゃんも彩夢さんと手紙のやり取りをずっとしていたけれど、実際に会ったのは一番最初の時だけ。それでも、彩夢さんはずっと手紙を書き続けているの」 「え、まだ彩夢さんって人はいじめられてるの?」 「いや、いじめ自体は彩夢さんが中学を卒業した時点で終わってるよ」  翼の問いに空が答える。空が祖母から彩夢との手紙のやり取りを引き継いだ時には彩夢は高校生になっていて、いじめから解放された新天地で学生生活を過ごしていた。  母親に対する後悔は手紙で解消している。いじめだってすでに終わっている。詩音からしてみれば彩夢の問題は解決したように見える。わざわざ掘り返すこともないのではないかと。 「助ける必要なんてあるの?」  だから、詩音はポロリと本音をこぼしてしまう。でも、空はそんな溢れた言葉を真っ直ぐなほど眩しい光を目に宿しながら思いを口にする。 「ある。それにあたしは彩夢さんの手紙で頑張る勇気をもらった。感謝の言葉も伝えたい。そして、あなたが前を向いて進んでもいいんだと、今度はあたしが勇気を与えたい」 「どういうこと?」 「手紙を読んでいて思ったの。彩夢さんは手紙のおかげで今は頑張れるようになれたけど、まだ前には進めてない。過去しか見てないの」 「だから、前を進めるための勇気を与えたいの」  それが、今の空の、ヒーローとしての空のやりたいこと。  確かに彩夢自身の目前の問題はない。いじめという目に見えてわかる問題ではなく、空が手紙の節々で感じた確証のない問題。  だけど、感じたからには空は無視はできない。  彩夢は今大学生らしい。高校生になってから大学生の現在まではそれなりに学生生活を謳歌しているように見えた。中学卒業まで手紙の内容の一つであったいじめとその報復は、最近あった嬉しい出来事に変わっている。  しかし、依然として「大丈夫」という自身に言い聞かせる言葉と「ごめんなさい」という謝罪の言葉が最後に添えられていた。  その上、過去の話題はあっても進路や将来の夢など未来の話は一切語られてなかった。  彩夢は過去に囚われて、未来を見つめていないのではないか?  空にとって過去は今までの自分を構成する大切なかけらだ。そして、未来はこれから自分が羽ばたく未知数のワクワクとドキドキが詰まっている。  空は彩夢に未来は想像以上に心が躍るものだと教えたいのだ。だから、過去に縛られるのではなく、前に進む勇気を与えて、未来にもっと思いを馳せて欲しい。  これは空のただのエゴ。ただのエゴだけど、空はやりたいのだ。 「彩夢さんには未来を見てほしいの」  だって空は勇気を与えるヒーローだから。 「……そうだね過去なんかよりこれからの未来のほうが大切だ」  そして、空の思いを聞いて詩音も共感の意を示す。  だけど、隣にいた翼は詩音の共感の言葉に違和感を覚え、チクリと胸が痛んだ。自分が思うほど詩音は翼たちとの思い出が大切ではなかったかのように感じられた。少しふてくされて翼は自分の意見を言う。 「おれは詩音ちゃんと違って、小学校のころの思い出とか大切に思ってるし、もちろん未来のことだって大切にしたいよ」  まあ、でも今は高校受験が先だけど。と、最後に付け足してそっぽを向く。途中で自分で言ってて恥ずかしくなったのだろう。ただでさえ夏の熱気で火照ってた体が、羞恥心で一層顔を赤くした。 「おっと〜。つーくんいじけちゃった〜? ごめんね、そーいうつもりで言ったわけじゃないから〜」 「そっか、そっか〜。翼、あたしたちとの思い出を大切にしてたんだね〜。おねーちゃん、嬉しいよ〜」  悲しいことに、お姉様方はそれを見逃すはずはなく、ニヤニヤと頬を緩めながら翼をいじり始める。 「べ、べつにいじけてねーよ! それより、助ける方法も決めてないなら早く決めよ!」  ただでさえ自分でも恥ずかしいと思ってしまっているのに、他者に指摘されるとより一層恥ずかしい。翼はこれ以上遊ばれそうになるのを危惧して、無理やり話題を戻す。  幸い生暖かい目で見てくるものの詩音と空は話題に乗ってくれた。 「助ける方法ねぇ……。私的には空ちゃんがさっき言っていたことをそのまま伝えればいいと思うんだけど」 「さっき言っていたこと?」 「未来を見てないから見てほしいって。たぶん、思った素直な気持ちを言った方が一番伝わると思うんだけどなぁ」  下手に何かをやるよりも、愚直にぶつかる方が空には合っているように詩音は感じた。 「たぶん、言われてないから気づいていないだけで、空ちゃんの言葉を聞いたら少しは変わるんじゃないかな?」 「でも、変わらなかったらどうすんの?」  翼は懸念点を指摘する。だけど、なんてことないように詩音は視線を空に向ける。 「どうします、ヒーローさん?」  詩音のその問いかけに空は自信満々に答える。 「その時は、未来へのワクワクが分かるまで言葉にし続けるよ」  カラッと晴れた天気のように空は笑う。  彼女の決意に詩音は満足しつつ、話を次のステップへと進める。 「空ちゃんが説得してくれるということで。お…………っと、じゃあ、どうやって相手に遭遇するの?」  いくら助ける方法を考えようにも、説得する言葉を考えようにも、まず助けたい相手に出会わなければ何も始まらない。  たぶん、一番の問題はそこ。  助けたい相手、彩夢について空が知っていることは少ない。どこに住んでいるのかも、どんな顔をしているのかも、どんな声をしているのかも、空は何も知らない。  空と彩夢を唯一繋げる手段は祖母から受け継いだ手紙だけ。  だから、空は自然と方法を見つけていた。 「手紙を通して会ってみるよ」  何年も顔も知らない誰かを繋いでくれた自分宛ではない歪な手紙。自分に向けてではないのは十分承知しているけど、空は彩夢の母ではなく空として手紙を返信しようと思った。  いつものお返しの花ではなく、空の手紙で。 「もし返事がこなかったら?」  その可能性も十分ある。心配する翼の言葉に続くように詩音は最悪の展開も示唆する。 「会うのを嫌がって、手紙を出さなくなり、最終的には音信不通ってこともあるよ?」  そしたら、今までどうにか通じていた小さな繋がりも途切れ、永遠に会えないままになってしまう。 「その時は、またその時に考えるよ。今はとにかく行動する!」  やってみないと分からない、何も始まらない。思いつく方法はそれしかないのだ。つまり、やってみるしかない。愚直で一途な決意に反論の余地はない。目的を見つけたヒーローはそう簡単には止められない。 「それじゃあ、まずは便箋を買いに行ってみる?」  やれやれとでもいうかのような顔で詩音は立ち上がる。最初は乗り気でないように見えたが、空の熱に当てられたのか、はたまた諦めたのか。そんなことは知る由もないが、満足げに空は笑った。        彩夢さんへ  はじめまして。一ノ瀬空です。  突然のお手紙、驚かせてしまいすみません。  実は、私は三年前から亡くなった祖母の代わりに手紙を受け取っていました。  ちょうどその頃、私はいじめにあっていました。だから、いじめに屈しない彩夢さんの過去の手紙には何度も勇気をもらいました。本当にありがとうございます。  今更かもしれませんが、私は直接、彩夢さんにお会いしたいです。  会って、伝えたいことが沢山あります。  今度の日曜日、夕方、いつもの東屋で待っています。  空より  空さん  お手紙、ありがとうございます。  そうですか、おばあさまは亡くなっていたのですね。  おばあさまには長年お世話になりました。  ご冥福をお祈りいたします。  そして、手紙のことですが、これで最後にしたいと思います。  もとより、この手紙は亡くなられたおばあさまが、天国に行くとき一緒に持って行って代わりに母に届けるという話だったので。  お気を悪くしてしまうかもしれませんが、これで私の思いは母に届いたので、本来の目的は達成されました。  だから、もういいのです。大丈夫なのです。  勝手ですが、ごめんなさい。  それでは、さようなら。  彩夢  約束の日曜日、夕方。東屋に来た空を待っていたのは一枚の手紙だけだった。  覚悟はしていたものの、現実を突きつけられると息苦しいものである。 「ねーちゃん、仕方ないよ。さすがに今までばーちゃんだと思ってた人が途中から別人になってて会いたいって言われちゃ誰だって困るよ」 「それに、これってもう、彩夢って人が前を向けるようになったってことでいいんじゃないの?」  木陰で見守る予定だった翼と詩音が姿を表し、思い思いに口にする。  翼の意見は正論だ。もともとこうなることも予想していた。詩音の意見は事実だ。でも、なんかちょっと違う。  表面上は事実だろう。手紙を書いている本人がそう言っているのだ。大丈夫なのだと。しかし、大丈夫ではないとヒーローとしての自分が叫んでいた。 「だめ、このままじゃだめ。何か分からないけど、それはだめ、だめなの!」 「何でよ? 大丈夫って言ってるじゃん。それでも助けるって言って、関わろうとするのはただのお節介だよ。迷惑だよ」  駄々っ子のように空が反論すると詩音が噛みついた。冷たさと鋭さをもってガブリと。  翼は焦った。この前の時もそうだったが、最近の詩音は攻撃的になっている気がする。再会した当時は穏やかで、のんびりとした口調で、どこか浮世離れしつつも溶け込んでいたのに。よく言えば接しやすく、悪く言えば他人ごとのように一歩離れていたところから傍観していた詩音。それが、今は確かな考えをもって空を否定する。 「相手は大学生っていっても、もう大人じゃん。そもそも、お母さんが亡くなってもう何年も経ってるじゃん。さすがにいつまでも引きずるのはおかしい。反吐が出る」 「反吐って……! 詩音、それはあんまりだよ! あたしには分かるもん、彩夢さんがこのままじゃだめって……!」  翼の知らない詩音の顔。明らかな敵意をもったどこまでも冷たい瞳。でも、翼は気付く。詩音は空の意見も反対しているが、その瞳に宿す敵意の矛先は空ではなく、顔も知らないはずの手紙の差出人である彩夢。 「空ちゃん、私たちだってもうそろそろで大人になるんだよ。黙っていれば助けてくれるなんて大人になったら通用しないよ。言葉にしなきゃ。相手はもう大人、助けてと言葉にしていない。大丈夫と言葉にしている。それが全てなんだよ」  彩夢を、空はいじめられていた当時の大丈夫でなかった自分を重ねているように、詩音は自分かはたまた誰かを重ねて見ているのかもしれない。それは翼には分からない。空と翼と会っていなかった空白の時間に彼女は何か変わってしまったのだろうか? それとも高校三年生という否が応でも将来を考えなくてはいけない環境から変わってしまったのだろうか? 「我儘言うのはお終いにしよう、空ちゃん。大人になろうよ」  空と詩音のやりとりに翼は歯がゆさを感じる。沈み始めていた太陽の光はもうほとんど影を潜めていた。紅色に染まっていた世界に紺碧の絨毯が広がり始める。まだまだ子供である翼にとってお前には夜は早い、出ていけと急かされているようで苦しくなる。  年齢という鎖が翼に絡みつき、詩音と空から引きずり放そうとしてくる。何も言えない、できない自分に歯がゆさを覚える。今、詩音の目に自分は写っていない。 「ヒーロー活動、やめよっか」  そして、一言、ため息交じりに言った。翼が一番恐れていた、聞きたくなかった言葉を。 「もちろん、空ちゃんとつーくんと会えるのは嬉しいよ。でも、私は受験勉強とか他にもやらなくちゃいけないことが沢山あるの。大事な夏休みにまでヒーロー活動に時間を取られたくないの」  座っていた詩音が立ち上がると風が吹いた。ふわりと舞うセーラー服のスカートは紺色の花を咲かせて、暗がりの世界に溶け込んでいく。 「……まあ、それでも一緒にヒーロー活動を続けたいのなら私が納得できる理由を用意してよ」  そうして詩音は穏やかな声で、のっぺりと張り付けたような笑顔で、言い捨てる。 「私はもう振り回されて、泣いてる小学生の頃の詩音じゃないんだよ。だから、ごめんね」  立ち去る詩音を空はただ茫然と見つめるだけだった。それが息苦しくなって、堪らず翼は姉に声をかける。 「……ねーちゃん」 「ごめん、翼、情けないとこ見せたね」  弱々しく答える空に胸が締め付けられる。翼が嫌いな姉の顔。ヒーローをやめてしまった時の姉の顔。  だけど、空は翼の瞳を見て、正確には翼の瞳に映る自分を見てハッと思い出したかのように目を大きく開き、そして、両手で自分の頬を強く叩いた。 「なっ…! どうしたのいきなり!?」 「気合い入れただけ。安心して。あたしはもう諦めないから、やめたりなんかしないから。だって、あたしは翼のヒーローなんでしょ?」  まだいつものような元気はないけれど、空の言葉に泣きそうなくらい翼は安心する。 「でも、少し考えさせて。あたしも今、どうすればいいのか分からなくなっちゃってるから」  詩音はずっと隣にいてくれると思っていたからこそ、空は戸惑う。  空にとって詩音は一番最初の友人で相棒のような存在だった。  同じ幼稚園に通って、仲良くなって、小学生になってからは放課後の遊び仲間。低学年の頃は危ないという理由で空の家に詩音はよく遊びに来てた。詩音の親は忙しく、家にはキライなおにーちゃんがいるからという理由で詩音の家で遊んだことはない。だけど、楽しければ空にとってはどっちでも良かった。というより、空の家で遊んだおかげで、幼い頃の翼と詩音がすぐ仲良くなることができたし、一緒にもっと楽しく遊ぶことができたから、これで良かったと思う。  高学年になってからは住んでいる地区が隣だったため、ちょうどその間にある神社が定番の遊び場になった。その頃、一緒に暮らし始めるようになった祖母の影響もあって空はヒーローを目指すようになり、遊びの過激さも増した。暴走する空と、巻き込まれて泣く翼と、泣きながら翼をフォローする詩音。おかげさまで遊ぶといつも大小あれどトラブルが発生していた。 『また、遊ぼうね』  だけど、いつだって最後は何故かみんな笑って、帰るときはまた遊ぶ約束をしていた。どんなことをしたって、どんな無茶をしたって、何だかんだ詩音は一緒にいてくれた。  毎日つるむクラスの同じグループの子たちとは違う。習い事で一緒に頑張る子たちとは違う。詩音は隣にいてほしい時に気付いたらいて、いざという時に背中を預けられるこころ許せる相棒だった。  だからこそ、突き放し、立ち去る詩音に空は何も言えなかった。どうしていいのか分からなかった。  約束がなく去られてしまったのはこれで二度目だ。  今回と、そして、小学校の卒業式。  あの日も、「中学校でもよろしく」と詩音に声をかけたとき、詩音はただ否定も肯定もせず微笑んでいた。当時は何の疑問も持たなかったけど、中学校の入学式、詩音が姿を現さなかった事実にその答えの意味を知った。  ああ、これではまた繰り返してしまう。  なぜ、詩音が彩夢に対して批判的なのか。なぜ、あんなにも大人であることにこだわるのか。分からないけど、このままではいけないということだけは空にも分かる。 「あー! もうっ!」  普段あまり物事を考えない空にとって、これはちゃんと考えないといけない由々しき事態。頭の中がごちゃごちゃで、発散したくて、空は悩みを全てぶちまけるように叫ぶ。 「翼っ!」 「な、なに!?」 「このままじゃ、彩夢さん、大丈夫じゃないよね!?」 「う、うん」 「このまま詩音とばらばらになるの嫌だよね!?」 「おれだって嫌だよ!」 「あたしはヒーローだよね!?」 「そんなん、当たり前だろ!!」  東屋の周りは花々や木々が多い。しかし自然が声を吸収してくれるからと言っても、近くには病院もあるから空たちの叫び声は近所迷惑もいいところだろう。だけど、まだまだ子供である空と翼は気にしない。関係ない。今向き合うべきは目の前に立ちふさがる困難だけでいい。  うん、自分をヒーローでいさせてくれる弟がそう言ってくれるのだ。だから、ヒーローとしてこの逆境を足搔き続けようじゃないか。
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