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◇◆◇
慣れないことはするものではない。
走るというにはあまりにも遅すぎる速度で詩音は道路を走っていた。
足がフラフラである。
そもそも何故こんなことになったのかというと、原因はやはり兄である。
今年二度目の説教を受け、スマートフォンを回収すると兄からのメッセージが一通。
「猫が逃げ出した」という頭を抱えたくなる問題が発生していた。
別に猫だから近所に放してもいいのでは?と思うところだが、生憎、野原家のご近所さんはそれを許さない。
猫が庭に排便するのを嫌悪しており、家によっては毒入りの餌を庭にまいているようだ。
もし、猫に何かあった時、ドアを開けっ放しで掃除をして猫を逃してしまった兄に責任はある。
しかし、だからといって自分は関係ないと思えるわけではない。生き物が死ぬのだ。大なり小なりあるが、気分が悪い。
何かが死ぬのは、どんな出来事よりも慣れにくい。
だからこうして、息を散らしながら近所を駆け巡っている。
「っていうか! 何で、本人は探してないんだぁ……!」
元凶である兄はバイトのため不在。
怒りではなく、もはや落胆。
兄は兄なりに心配していたとはいえ、彼に何かを期待するのは無駄だ。
「もしかして、田んぼの方に行っちゃったかな……?」
詩音が暮らしているのは近代化の流れに影響を受けつつも、山や田んぼなど田舎の面影を残すのどかな町。住宅街を抜けると所々森林や田園風景が広がっている。
猫がそちらに行っている可能性も十分にある。
昔はよく遊び場としてお世話になっていた田んぼ道に足を踏み入れる。
素肌に草が絡みつき、なんともこそばゆい。
好き放題に伸びた草っ原や少しぬかるんでいる土、ゴツゴツした石が組み合わさってできた不安定な道。
普通は足が汚れそうで通るのさえ嫌なはずなのに、自然と心は浮き立っていた。
宝物を探し、挑戦する冒険家のようであった。
「にゃあ」
ふと、聞き覚えのある声がどこからか聞こえた。
見つけた、宝物。
雑木林の隙間から影のようにひょっこり姿を見せた黒猫を目の端で捉えた。
「わっ、お願いだから変なところに行かないでよ……」
やっと見つけたはいいが、雑木林の奥へと進んでいく。進もうと思えば進める。だけど、とてもじゃないが、人が通る道なんてものはない。
手で邪魔する草木をかき分け詩音はなんとか猫の後を追う。
林が生い茂り、太陽の光を遮断する。
ちらちら差し込む木漏れ日と、光を反射する葉に溜まった水滴だけが、唯一の明かり。
何故だか木々がいつもより大きく見える。
詩音はこの感覚に身に覚えがあった。
でも、いつの時だっただろうか?
しかし、詩音は考えるのを中断した。
猫が歩みを止めたからだ。
「や〜と、捕まえた」
ひとまず一安心して、猫を抱き上げる。
猫は抵抗することなく、詩音にそのまま身を預ける。
だが、困った。猫を追いかけるのに夢中で、帰り方を忘れてしまった。
どうしたものか、一旦来た道を引き返すか?と、悩んでいると人の声が聞こえた。
「よかった、人がいる」
とりあえず、声がする方を頼りに詩音は緑の道を進んでいく。
すると林の間から建物が見えはじめた。
その建物を詩音は知っている。
薄汚れた木の鳥居。苔が生えた屋根。
刹那、まぶたの裏に蘇るのは小学生の頃の情景。
詩音たちの秘密基地であった神社だ。
その景色は昔と変わらないあの日のまま。
ギュッと胸が締め付けられる感覚に陥った。
蓋をしていた何かが溢れ出しそうになる。
これは、ダメだ。
詩音の中で危険だと赤信号が点滅し、警告する。早く止めなければならないと自分に言い聞かせる。
幸か不幸か、それは第三者の声によって止められた。
「だからぁ、これはゲームだって言ってんじゃんかよぉっ!!」
ドンと何かを蹴る音。嗚咽。笑い声。
先ほどはぼんやりと遠くから聞こえていた声は、今ははっきりと不快なものとして聞こえる。
経験したことはないけれど、詩音はその行為を話で、テレビで、本で知っていた。
「そーれーとーもー、だーい好きなお姉ちゃんみたいにヒーローになっちゃうー?」
「ぐぁっ」
ああ、これは俗にいういじめというやつか。
詩音は息を潜め、猫の口を押さえながら林に身を隠す。
面倒な現場に出くわした。制服を見た感じ、地元の中学生たちだろう。
正直にいうと関わりたくない。
人道的には目撃した者として助けてやるべきなのだけれど、自分の身の方が大切。
高校生である詩音にとっていじめている彼らは中学生で年下。だけど、彼らは男である。女である詩音が助けようとしても、複数人の男子中学生を相手にするのは危険。いじめられている男子中学生の二の舞になるだけだ。
だから、詩音は黙って隠れる。
いや、隠れてずっとここにいるのではなく、こっそりこの場から離れた方が得策だろう。
そうして詩音は音を立てないように場を立ち去ろうとする。
「相変わらず、何も言わねえからつまんないなぁ。少しは何か反応したらどう何だぁ? 一ノ瀬翼君よぉ?」
だけど、サンドバッグのように暴力を受ける気の毒ないじめられっ子の名前を聞いた時、詩音は足を止めた。
聞き覚えのある名前だった。
一ノ瀬翼。幼稚園から中学に入るまでつるんでいた友人の弟。
かつては一緒に遊んでいたことも。
年も性別も違うが、小学生のあの頃は、詩音にとって彼は友達でもあった。
だけど、今は違う。
詩音は昔の詩音ではないし、翼も昔の翼ではない。
所詮は他人だ。
驚きはしたものの、他人のために危険を負うつもりはない。
その他人はかつての友達だとしても。
だから、そう、危険を負わなければいい。
詩音はその場を離れることはせず、それが終わるまで身を潜めることにした。
その一方的な暴力はしばらく続いた。
時間を見ているわけではないから、実際どれくらいかかったのかは分からない。
だけど、詩音にはその時間がひどく長く感じた。
「じゃあな、一ノ瀬君。また今度もよろしくな」
ニヤニヤと気持ち悪い笑みを残し、地面に転がる翼を置き去りにして男子中学生たちは帰っていった。
泥だらけに汚れた制服、赤く腫れ上がった顔や手足。
見るに無残な姿だった。
声をかけるべきか躊躇していると、今まで大人しかった猫が騒ぎ、詩音の腕からするりと抜け、翼に向かって駆け寄った。
「猫……あっ……」
気づかれた。
詩音はどうにでもなれとそのまま勢いに任せることにした。
「久しぶり、つーくん」
少し緊張して声が裏返る。
そりゃそうだ。詩音の記憶の中に残っていた一ノ瀬翼と目の前にいる彼は年が違う。
可愛らしい声も、小さかった身長も今の彼には当てはまらない。
名前を聞いたから気づいただけ。
きっと相手も同じく分からないだろう。
「詩音ちゃん……?」
しかし、翼は詩音の予想を裏切った。
彼は詩音とは違って気がついた。
何だかそれが申し訳なくて、でも、そう思っていることに気づかれたくなくて、笑顔で誤魔化す。
「つーくん、よく気がついたね。ちょっと嬉しいや」
「……そう、ですか? でも、何でここにいるんですか?」
昔はなかったはずの敬語を翼は詩音に使う。前よりも距離が遠いような感じがした。
「猫を追いかけていたらね、ここまで来ちゃったんだー。ていうか、つーくん、身長も大きくなったね」
「まあ、流石に小学生のころと比べれば……」
会話は続く。でも、今の二人の間にある違和感は拭いきれない。
「詩音ちゃん、さっきの見てましたよね……?」
「うん、見てた。ごめん、助けなくて」
「いや、仕方がないですよ。誰だって怖いですもん」
詩音が先ほど目にしたいじめのことを話す。
どうやらあのいじめはずっと前から続いていたようだ。
小さな嫌がらせは中学校一年生の時からちょくちょくあったらしい。
「受験期になってから一気に悪化したんですよね。今、おれも、さっきのあいつらも中三で、受験生で」
翼はそのストレスのはけ口として絶好のターゲットだったんだろう。
「先生とか親は何も知らないの?」
「証拠もないのに信じてもらえるわけないじゃないですか」
高校生ならまだしも中学生ならまだ親に言えば解決できるのではないかと詩音は疑問に思ってしまう。
「変に言うと、あいつらが逆ギレして前よりも酷くなるんです。それに内申にも響きます」
「そうなのかな?」
「そうなんです」
詩音はいじめを経験しているわけでもないし、内部進学で高校受験を経験しているわけでもないから下手なアドバイスは言えない。
だけど、今までずっと黙って耐えているのも正しいとは思えない。
「よく耐えられるね」
「耐えていた人を知ってしまったので、逃げ出すわけにはいかないんですよ」
「ふーん」
翼の言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。
いったい何が翼をそうさせているのかは分からない。
けど、分からないなりに詩音は自分の教訓を伝える。
「でもさ、手遅れになっちゃう前にやりたいこととか、言いたいこととかちゃんとやっといた方がいいよ。そうしないと前へ進めないよ」
「だから、それができたら苦労はしませんよ」
苦笑いを翼は浮かべる。
そんなんで解決できたら、世界はどれほど生きやすいのだろう。
下手に行動したり、言うことは許されないのだ。
「んー、じゃあさ」
そう言って、詩音は翼の膝の上で戯れていた猫を抱き上げ、翼の目の前に差し出す。
「猫に言いたいこと全部言っちゃいなよ。言葉にするのが大切なんだよ」
にこりと詩音は笑う。
一瞬、翼の目には、笑顔が昔の詩音の姿に重なった。
「それにさ、猫は猫だから他の人に告げ口できないから大丈夫!」
「何ですか、その理由」
思わず翼もその笑顔につられる。
気づけば周りの景色は夕日で少しずつオレンジ色に染められてきた。
どこかで夕方を知らせる曲が町中に響き渡る。
翼はこの曲の音色が嫌いだ。
この曲が聞こえる時はいつも誰かとさよならをしなければならないから。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
座っていた詩音が立ち上がる。
翼も立ち上がり、土で汚れた制服をはたき落とす。
名残惜しい。その感情が普段は消極的な翼を動かした。
「また、明日も会える?」
小学生のとき、また明日も一緒に遊ぶための魔法の言葉。帰りが違う詩音に言っていたかつての言葉。
だけど、それはもう魔法の言葉ではない。
「明日もって、同じ学校でもないから会うのは流石にキツイかな〜」
「そ、そっか」
これが翼の限界だった。
言った後から羞恥心が込み上げてきて、少し下を向く。
「でもさ、次もきっと会えるよ」
「次?」
「うん、次。次会う時にはせめて猫に何か言えるくらいになってほしいな〜」
「じゃあ、次会うまでには猫に何を言うか考えておきます」
社交辞令だと思った。
次も会えるなんて保証はない。
その場限りの言葉。
お互いに自覚して、でも、お互いに合わせて言っている言葉。
だけど、翼はそれだけでよかった。
いつもは嫌でたまらない、そんないじめの時間。
だけど、たった一日、数時間だけ、心休まる時間があった。
その思い出がこれからの自分に頑張る力をくれるだろう。
自分がこの苦痛を耐えられる限界まで。
少しの期待とさよならを込めて、
「また今度」
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