FACT 01

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 温かい空気とコーヒーの香りにふわっと包まれる。空気中にかすかに漂うスパイスは、マサラチャイに違いない。  左手にはオーク材っぽい明るい木目のカウンターがあって、背の高い椅子が四つ並んでいる。右手には二人掛けの四角いテーブルが五つ。一番奥のテーブルでは男性が本を読んでいる。  カフェとしてはそれほど広くないけれど、そこがまた隠れ家っぽくて居心地がよいのだ、この店は。 「いらっしゃいませ」  サチエさんがカウンターの内側から声をかけてくれた。春菜はペコリと頭を下げた。  ちなみにではあるが、念のため言うと、サチエさんというのは、この女性の本名ではない。少し前に観た映画の登場人物の名前だ。  あの映画の舞台は北欧だったけれど、カフェを切り盛りする女性という役柄といい、演じていた女優さんの優しげな風情といい、何となく目の前にいる人とイメージが重なるので、心の中で勝手にそう呼ばせてもらっている。  春菜のいつもの指定席は、今日も空いていた。一番手前のテーブル席。ドアに近くはあるけれど、窓の横にすっぽり収まれる感じがして、何だか落ち着けるのです。  春菜は、テーブルの手前でスプリングコートを脱ぎながら、店の奥の先客にちらっと目を遣った。  春菜がこのカフェに来るようになって少し経つ。よく来ているお客さんとは、互いに何となく顔見知りになってきたけれど、この人に会うのは初めてかもしれない。
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