その生き方が正しかった事を、僕は証明したい

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「怒ったら負けだ」    それが父の口癖で、私は父の怒った姿を見たことが無い。今日も父の穏やかな表情にその言葉を思い出していた。 「人に迷惑だけは掛けるなよ」  これも父の口癖で、普段優しい父もこの言葉を言う時だけは少し厳しい表情をしていたのを思い出す。  そしてもう一つ、 「泣くなとは言わんが、同じ事で2回も泣くんじゃない」  これは泣き虫だった私に父がよく言ってくれた言葉だ。泣いてもいい。それでも、同じ事で何回も泣くんじゃない。悔しい時、悲しい時は泣いてもいい。その分、強くなれ。泣いた分だけ強くなれ……。  腹を立てずに、誰にも迷惑を掛けずに生きていく事。父が私に教えたかったのはそんな生き方だったのだろう。その為に強くあれ。泣いて、強くなれ。  私は今、大勢の参列者の方々に祝福され、最愛の人を前に この先の人生を共に歩き、苦難を共に乗り越えて生きていく事を誓った。 ふと父を見ると、見慣れた穏やかな表情で、なんだか少し恥ずかしい様な、照れる様な気持ちになった。  私は父の生き方に反発したことがある。思春期の反抗期というやつで、母親を泣かしたこともある。学校に親が呼び出されたこともある。 その時も父は穏やかな表情で、 「そうカリカリするな。みんなに迷惑がかかるだろう」と言って来たのに対し私は、 「うるせえ! なんでそんな周りに気を遣いながら生きなきゃならねえんだ! 自分のやりたい様にやって何が悪い。そんな生き方、ダセえし、疲れるだろうが!」と、睨みつけながら怒鳴った事がある。  父の生き方を全否定した気がして、心の底からスカッとしたのを覚えている。  しかし父は、その時も穏やかな表情を崩さず真っすぐ私を見て、私の言葉を頷きながら聞いていた。「言いたいことは良くわかる」父の顔には、言葉にはしないものの、ハッキリとそう書かれていた。  それを見て私は、急に自分が馬鹿らしくなった。無茶苦茶な事を言っている事を改めて思い知らされる。私の中に沸き起こる「分かってはいるけど抑えようのない怒り」が、「馬鹿らしい、ただ疲れるだけの恥ずかしい物」へと形を変えた。  きっと私の顔にも「なんか、ごめん。」そう書いてあったと思う。  そして父は私に、 「怒ったら負けだ。怒るのは、弱い人間が自分を大きく見せるためにする事だ。自分の考えが小さいから、自分に自信が無いから、それを必死に誤魔化している」 と言うと、少しだけ厳しい表情をして   「そんな人間がいたら、迷惑だろ? 結局は、みんな離れて行くんだよ」と続けると、元の穏やかな表情に戻り、 「この先何か揉め事があって、誰かと言い合いになってもな。顔で笑って心で泣いたら良い。そのあと、そいつと一緒に二人で笑える時が、きっと来るから」と言った。  もし、人の生き方に正しいか間違いかの答えがあるのなら、それはきっと「幸せなのか、そうじゃないのか」これが全てだろう。 その場で感じる幸せもあれば、「後からきっと実感できる」そんな幸せもあるだろう。  極端な事を言えば、死ぬ間際になって、誰かが自分の姿を見て涙を流してくれる。それさえも幸せなのかもしれない。しかし……。  果たして、父の言うその生き方は本当に幸せだろうか。きっとたくさんの理不尽な我慢もあったはずだ。  そして、「そのあと笑えなかった事」も、数えきれない位あっただろう。信念と現実の間で葛藤し続けたことも有るだろう。  その生き方は、本当に正しいのか?それで、本当に幸せに生きれるのか?  挙式会場の壇上の上で一通りの結婚式の儀式を終えたあと、バージンロードを歩いて退場する。バージンロードは人生に例えられていて、入場はこれまでの人生、退場はこれからの人生を意味している。だから、退場時にフラワーシャワーなどを使って花道を作る。これからの人生に災難が降り掛かる事無く、幸多き人生であることを願って。  ゲストの方々がフラワーシャワーを手に取り、これからバージンロードを出口に向かって歩こうかというその時に、急に司会者の声が響いた。 「実は、新郎様のお父様よりお手紙を預かっております」
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