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「姐さん、おはようございます! 今日も美しいです!」
僕は大学へ向かう姐さんに、九十度頭を下げて朝の挨拶。あの夜に出会った彼女のことを、僕は『姐さん』と呼んでいる。
「君、学校は?」
頭を上げると、姐さんは口を真一文字にして僕を見下ろしていた。中学三年生の僕はまだまだ成長段階で、ヒールを履いていなくても姐さんの方が背が高い。
「大丈夫です、遅刻くらい!」
「いや、大丈夫じゃないでしょう」
「僕、入学してから今まで、欠席したことないんで」
「尚更、遅刻してはいけない。無遅刻無欠席無早退を目指しなさい」
姐さんは長いポニーテールを揺らしながら、大学の方へ身体の向きを変えた。
「それが姐さんの望みなら!」
僕は携帯電話を出して時刻をチェックしてから、続けた。
「僕の短距離走最速記録で走り続ければまだ間に合います!」
「そう。じゃあ、頑張って」
「はいっ!」
僕は姐さんの背中に向けて敬礼をした。
そのままの姿で見送っていると、姐さんが立ち止まってこっちを向いた。
「……事故に、気をつけて」
さらっと言いのけると、姐さんはまた歩き出した。曲がり角を曲がるまで、もう振り返らなかった。
優しい。僕の身を案じてくれた。
何度でも思う。僕は、彼女が好きだ。
姐さんは、影のような魔物――『スキア』と言うらしい――を倒す家系の一人娘だ。スキアは神出鬼没で、出現しそうだと分かると、姐さんは対スキアの呪い(まじない)がこもった刀と瓢箪を持って、スキアに立ち向かう。早めに対処しないと、スキアがここら都内から増幅して、やがて日本を闇で覆い尽くしてしまうからだ。スキアについては未知なことが多く、元々は物の怪の類いなのではないか、というのが代々伝わっている。
これが、僕が姐さんに初めて会った時にしてもらった説明だ。
姐さんは、僕の前に現れた影を一刀両断すると、瓢箪の上の部分から栓を抜いた。それは瓢箪型の水筒らしかった。栓のあった所を口にふくんで、ごくりと喉を鳴らしたから。しかも中身は、未だに姐さんから明確に聞いてはいないが、たぶん酒。昔、父親が家で飲んでいた日本酒と同じような臭いがして、なおかつ姐さんの呂律も少し回っていなかったから。
「君も飲む?」
と聞かれたが、丁重に断っておいた。その酒が対スキアにおける、彼女の力の発揮の仕方なのだということを、この時の僕は知らなかった。
姐さんによれば、スキアが普通の人間にちょっかいを出すこと――僕に笑顔を向けたように――は珍しいらしい。僕に原因があるかどうか調査をさせてほしいと言われたら、僕に承諾以外の選択肢は無かった。
姐さんは成人したばかりの大学生で、僕は中学生。普通に生活していたら接点のないはずの二人が、こうして出会った……電池よ、切れてくれてありがとう。
あの日から、僕と姐さんは度々会うことがある。いや、むしろ僕が会いに行っている。毎日のように顔を合わせても、姐さんは嫌な顔一つせず僕と会話してくれる。
例えそれが、スキアに関する調査だとしても、僕は姐さんと会えればそれでいいんだ。
姐さんのおかげで、僕はチャイムと同時に学校へ着いた。勉強もスポーツも並、無遅刻無欠席無早退で素行も普通。将来やりたいことも特になく、近場の並の高校に模試でずっとA判定が出ている僕は、受験戦争に熱意を見いだせない。
だが最近、思うのだ。
姐さんの通う一流大学に通うのもいいなと。僕があと三年間ちょっとで大学生になった時、もしも姐さんが大学院に進学していたら、学内カップルも夢じゃない。そのためには、並ではなく上の高校に進学すべきなのではないかと。
「うーん……」
僕が廊下で腕組みして考えていると、教室の中から担任の声がした。
「そんな所で立ち止まってないで早く教室に入ってくれないか。ホームルームが始められん」
おっと、いけない。初めての遅刻をしてしまうところだった。
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