美影

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 その日、姐さんに呼び出されたのは、二十三時半のことだった。既にパジャマだったので、ティーシャツとチノパンに着替え、歩きながら羽織ろうと薄手のパーカーを手に、家を出た。  呼び出された先が家から近い所にある川原だったから、二つ返事で出かけたものだったが、正直なところ夜中の呼び出しは、家を抜け出す口実にいつも苦労している。今夜はたまたま親が早寝で助かった。念のため、飲み物を買いに行く、とリビングにメモ書きを残してきた。  携帯電話のライト機能を頼りに僕が川原へ着くと、姐さんは瓢箪の先を咥えているところだった。七分袖のワンピースを着ているようだ。僕は走り寄り、頭を下げた。 「姐さん、こんばんは」 「こんばんは」  そう舌足らずに言って首を横に傾けた姐さんに、僕はドキリとした。姐さんは髪を結んでいなかった。垂れ下がる長い黒髪が、より大人の色気を出していた。酒の臭いに混じって、別の、甘い香りもする。更に、ライトが照らした姐さんの髪が、いつもより艶やかに見えて―― 「ま、ま、ま、まさか、姐さん……ふ、ふ、風呂上がり!?」 「うん、今夜はスキアが現れないと思ったから。せっかく、入浴剤まで入れてゆっくりしていたのにな」  姐さんは髪先を手に取って見つめた。 「だ、ダメですよ! 髪くらい乾かさないと、風邪引いちゃいますっ」 「君を待たせてはいけないと思って」 「えっ」 「スキアに襲われでもしたら大変だから」 「あ、そうですよね……」  僕は一瞬だけ期待してしまったことに恥ずかしくなった。  姐さんにとって僕は、ただの調査対象。僕は俯きながら、着ていたパーカーを脱いで姐さんに渡した。 「……着てください。僕の汗が染み込んじゃってるかもしれないけど」 「ふふ、気にしないよ。ありがとう」  姐さんが袖に腕を通す。僕には少し大きめのパーカーが、姐さんの背にはピッタリだった。ついさっきまで僕が着ていた服を姐さんが着ている……何とか理性を抑える。 「お酒で身体は火照っているけれど、やっぱり洋服は暖かいね」 「……良かったです」  姐さんはパーカーの裾を引っ張って微笑んだ。僕がさっきまで着ていたからです、とは、とても言えなかった。  突然、和やかだった姐さんの表情が険しいものになった。 「……出た」  姐さんが見つめるのは僕の後ろ側だ。僕も首を向けた。  川原に敷かれた石の上に、ゆらゆら揺れているものがある。暗闇の中でも、何かがいる、というのが分かった。  僕は咄嗟に携帯電話のライトを照らした。人型に近いスキアが揺れながら立っているのが分かった。スキアは影のようだが、このくらいの光を照らしても消えることはない。影が実体を持っているのだ。 「そのまま、照らしてて」  姐さんは僕の横を軽やかに通り過ぎると、スキアへ一直線。スキアの目の前にたどり着くと、刀を抜き、真横に振った。いつもながら、酒を飲んでいるというのに的確な動きだ。  奴は、刀が当たる寸前に湾曲し、切っ先を避けた。 (素早い……っ!)  スキアにも個性があることが分かっている。動きが鈍いもの、細長く延びるもの、時には僕らに攻撃してくるものもいる。このスキアは、俊敏な部類なのだろう。  姐さんは空を切った格好で一度止まると、スキアが避けた方に足を踏み込んだ。刀を槍のようにして突き刺す。  そのひと突きもスキアは避けてしまう。その後も何度か刀を振ってみるが、どれも奴には届かない。奴は身を翻しながら、どんどん大きくなっているようにも見えた。これが増幅していく、ということなのか。  あのまま一人、振っているのではダメだ。僕は足下にあった石を広い、スキアに向かって投げた。  スキアは迫る石に驚いて、身体を横へくねらせた。だが、くねらせた先には、姐さんが刀を構えていた。姐さんは刀を大振りすることなく、奴が向こうからやってきたのに優しく刃を当てるだけ。スキアは刃の当たった箇所から裂けていき、やがて消え去った。  ふぅ、と息を吐いてから、姐さんは刀を収めて僕を振り返った。流れる黒髪と、微笑む姐さん。美しい。 「ありがとう、助かったわ」 「い、いえ! 姐さんの助けになったのなら良かったです」  僕は頭を掻いた。 「……やっぱり、スキアの出現率が高くなっている気がする。しかも、この地区で」 「何か原因があるんでしょうか?」 「分からないけれど、きっとあるのだと思う。まだまだ君の協力が必要かもしれない」 「僕で良ければもっと頼ってくださいっ」  さっきみたいに。僕の言葉に、姐さんは表情を曇らせた。 「でも、君は受験生……」  受験生。恐らく、その言葉がトリガーになったのだと思う。 「姐さん、僕と結婚しませんか?」  そんな台詞が口を出てしまったのは。  言ってから数秒経って、僕は何を言ってしまったのだろうと口を押さえた。気持ちとしては嘘じゃない。でも、今日言おうなんて微塵も思っていなかった。 「……」  見ると、姐さんは呆然としていた。その頬の赤らみは酒のせいですよね?  もう仕方ない。僕は早口で言う。 「あ、あの僕、今から勉強、もっと頑張って、姐さんと同じ大学に行きますっ。それで、良ければ待っていてほしいなって……」 「……」 「僕、何でもしますから! 姐さんのこと、そばで支えますから!」 「…………ごめん」  え?  僕が言葉を失っていると、姐さんは伏し目がちに言った。 「……私、こんな家系の人間だから、嫁ぎに行くわけにはいかなくて、親戚の人と結婚しなくちゃいけないの……ごめんなさい」 「……」 「……」  姐さんが僕を見てくれない。  この時間が、嫌だ。 「……や、え、やだなぁ。真面目にとらないでくださいよぉ。姐さんのことが好きで好きで仕方ないのは本当ですけど、結婚なんて……冗談です、冗談」  言っていて、自分が悲しくなった。乾いた笑いしか出ない。  僕が次にどうやって取り繕うか焦っていると、姐さんは言った。 「……今日は、ありがとう。……またね」 「っ」  踵を返す姐さん。僕は別れの挨拶すらできなかった。  姐さんのあんな悲しそうな顔、僕は初めて見た。こんなにも姐さんのことを好いていて、姐さんにあんな顔をさせてしまうなんて、情けない。  この日から、姐さんからの連絡が来なくなった。  スキアが現れなくなったわけではない。ある夜、友だちの家から帰る時に近くの路地で、スキアと対する姐さんを見かけたから。  僕はもう、必要とされなくなったんだ。
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