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僕は勉強に時間を注ぐことにした。それしかこのもやもやした気持ちの行き場が見つからなかった。学力が上がって損はないし、あわよくばまた姐さんと会えた時、同じ大学へ進学できるかもしれないから。
今日も英語の予習のため、部屋で机に向かっていると、急に視界が暗くなった。机の上のスタンドライトに異常はない。僕は天井の蛍光灯を見た。
「なっ」
スキアだった。蛍光灯を上半身で覆うように、天井にへばりついている。顔のような部分は明らかに僕を見ていて、ニタニタ笑っているようだった。
換気のために開けていた窓から入ってきたのか。でも何で僕の部屋に。普通の人間にちょっかいを出すのは珍しいって、姐さんは言っていたじゃないか。
姐さんを呼ぶべきか。いや、今更どんな風に連絡すればいいか思いつかない。
僕は先日の川原のスキアを思い出し、天井の奴に机の上に出ていた消しゴムを投げた。奴の腹の辺りに直撃する。だが奴は、狼狽えることなく天井を這い、隅まで行くと今度は壁を伝って下りてきた。
(僕を狙っている……?)
反射的に、僕は椅子から立ち上がって身構えた。背中には机と壁。今、僕がいるのは入り口のドアから一番遠い位置。どんなスキアかまだ分かっていないのに、逃げられるだろうか。
僕がドアの方に一歩進んだ時だった。
「!?」
突然、足が動かなくなった。腕も顔も動くのに、右足も左足も、膝から下が動かない。床から離れない。
足を見て、原因が分かった。壁伝いに下りてきたスキアが床を這い、僕の両足首に絡み付いていたのだ。
「くそっ、離れろっ」
身体を前に折って、手でスキアを払おうとした。が、スキアを掴めない。奴は僕に触れているのに、どうして。
奴がまた、僕を見て笑った。そして絡み付きが膝までやってくる。
あぁ、無理だ。触ることのできない影に、どうしたらいいって言うんだ。階下の母親を呼んだところで、どうにかできることじゃない。僕はどうなるのだろうか。このまま死ぬのだろうか。
僕は苦笑しかできなかった。
「お邪魔しますっ!」
窓の方から聞き覚えのある声がしたと思ったら、目の前に黒髪ポニーテールが現れた。
「ね、姐さん!?」
何処から現れたのだろう――いや、きっと窓からなのだろうが――僕の大好きな姐さんが、目の前でしゃがんでいた。刀の先を僕の両足の間の床に付けて。
切られたスキアは、混ぜたコーヒーのように渦を巻くと、だんだんと消えていった。
僕はホッとして尻餅をついた。反対に、姐さんは立ち上がって刀を収めている。
「姐さん……どうして……」
「どうしてって、君を助けるためだよ。奴らは、やっぱり君を狙っていたんだ」
「え、僕を狙っていた? そんなの、今までに無かったけど……」
「いや。着実に君に近付いていっていたよ。思い出して?」
僕は姐さんと初めて出会ってから今までのことを思い起こしてみた。
「……でも、どうして?」
「君の名前、考えてみればまだ聞いていなかったよね。教えて?」
「え、今更ですか?」
そう、僕たちはお互いに名前を知らなかったんだ。名乗る必要も特になかったから。僕は思わず吹き出してしまったが、姐さんは至って大真面目に聞いているらしかった。
「……朝陽光輝(あさひこうき)です」
「やっぱり。君は、常に光り輝いていたんだね」
「えっ?」
「部屋に入る前、君の家の表札を見て、もしかしたらって思ったの。君、お母さんと二人暮らしだったんだね」
「はい、少し前に離婚して、母親に引き取られたんです。朝陽は、母親の旧姓で……」
「それで、よりスキアたちを惹きつけてしまうようになったんだね」
「え……姐さん、言っている意味が分からないんですけど……」
僕は疑問符を浮かべて姐さんの顔を見た。
「君の名前だよ。今まで、スキアの出現条件が分からなかったんだ。でも、これで分かった。影は、光が強い所に濃く現れるからね」
「えっと……」
「つまり今の君は、常にスキアを惹きつけてしまう」
「えぇ!? それは困るっ」
僕は首をぶんぶんと横に振った。未知の生物に好かれる生活なんて、たまったものじゃない。
すると、姐さんは急に身体をもじもじさせ始めた。頬を指でかきながら言う。
「……この前の答えなのだけれど」
「え?」
「会わないようにしてみて、分かった。……私も、君に惹かれているみたいなんだ」
「……」
姐さんの顔は真っ赤だった。これはきっと、酒によるものじゃない。
「その、まだ結婚はちょっと考えられないし、親族を説得できるか自信がないんだけど……スキア退治を名目に、君の傍にいてはダメかなぁ……?」
「そ、そんなの……」
ダメなわけない。僕は今にも彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、必死で抑え、代わりに右手を出した。
「姐さん……いや、姐さんの名前も教えてくださいよ」
「私は――」
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