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いつかの僕たちへ
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――それはまるで、溶けない雪のようだった。
かつてそれは水面を揺蕩っていたのだろう、しかし今、それは鮮やかな色の布に絡めとられ、離れることをよしとしない因果のようにそこかしこに散らばっていた。
「……んふ」
「笑うならもうちょっとしっかり笑ってください。半端が一番恥ずかしい」
「いえいえ、失礼しました。素晴らしいと思いますよ」
「お世辞はいいから、私だって愉快なものが書けたと思ってるよ」
するりと僕の手から、ルーズリーフに書かれた物語が零れて彼女の手元に戻る。その昔、学校の屋上で語らった際に話していた、小説を書きたいという夢を彼女は今まさに叶えようとしている。何かにつけて冷めた顔をしていた彼女にしては、大きな一歩だ。
「それで、洗濯槽にポケットティッシュの残骸を見つけた詩人な彼は、この後どうするんですか」
「考え中。この旅行中に何か思いついたら、書き足していく予定なので」
そのまま鞄にしまわれる代わりに、先ほど買った弁当が窓際に置かれる。もうそんな時間だったかと窓の外を見れば、静かな山沿いの道に桜並木が見えた。あのトンネルを抜けた先に、ようやく目的地が見えてくるはずだ。
「にしても、君から旅行に誘われるなんてね」
「落ち着いたらどこか、僕の行きたいところへと話してくださっていたので」
「もう少し先のことかと、勝手に思ってたなぁ」
「んふふ……しかし、男女二人きりの旅行だなんて、これは何かが起こりますね」
「男女?……電球を携えた女子大生の小旅行でしょう?」
「これは手厳しい」
いつものように、軽口を叩けば少々苛烈な返事が直ちに飛んでくる。気兼ねないやりとりが心地よくて、ガラスで出来た、ないはずの口元が緩む心地がする。
目の前で美味しそうに食べる彼女を見ては空腹を刺激される。電球の頭でどう食べているのかと聞かれれば、自分の中では口があると思われる場所に運んでいるだけなのでただそう説明するしかできない。ガラスに吸い込まれるように消える食事風景は、確かにうっすらと映る窓を覗いて見てみても形容しがたいものだった。
頭は電球、体は普通の人間、の男の体。自分では慣れてはいるものの、周りの目はそうはいかない。新幹線の通路を挟んで斜め向かい、あんぐりと口を開いて遠慮のない視線を向けてこられるおばさんは、転校前のクラスメイトの目に似ていた。俺の食事の風景を物珍しそうに眺めて、動画をサイトにアップロードしようとして、指さし、俺を化け物と呼んだ彼は元気にしているだろうか。
「おまえなんで電気ついてんの?どっかで充電してんの?」
そもそも皮膚の代わりに球体ガラスがついていることすら説明が不可能だというのに、彼はこの不可解な事象に対して解説を求めた。それまではジョークなんかを言うタイプではなかったのだが、真面目に考えて対応するだけ無意味だと思えた。なので、こんな風に返してみた。
「今まさに充電をしているところだよ。おまえの寿命でな」
にこり。冗談めかして言ったつもりだが表情も伝わらなければ彼らは怯えて逃げ出した。そうか、お前たちからすれば化け物だものな。そう納得すれば自分らしくあろうとすることを簡単に諦めることができた。こんな頭になったのは罰だと、自分が一番よくわかっていたから。俺ではなく、僕に。奇妙な言葉遣いと敬語でうやむやに。そうして作り上げた僕の傍に、彼女は居たいと言ってくれた。
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