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4
アパートについたのは、もうすっかり暗くなってからだった。遅い時間に一人で、私は泣いていた。慰める人もいないので、ただ静かにぼろぼろと涙だけを垂れ流していた。
あのとき掠めた注射器が、実は刺さっていて、ほんの少しでもそこから薬が入っていたりしてないか。そんなことが怖くてたまらなかった。
薬が体内に入ったかどうかではない。そんなことが本当にあったとしても、私にはもう、それを心配してくれる人もいないのだ。どうしたらいいかもわからなくて、蛇口からずっと冷たい水を腕にかける。情けなくも鼻水まで垂らして、口元をひん曲げる。ネットでどれだけ調べても怖い情報ばかりなので、いよいよ気が滅入って私は、クッションを掴んで定位置に座り込む。
彼ならこんなとき、なんて言ってくれるだろうか。今更彼に向かって、私は何を言う気なんだろう。彼はいつだって、何も関係のない人間関係のせいでとばっちりを食らっている気がする。どちらも私のせいか。謝りたい、誤って済む問題でもないけれど、謝りせずに終わりになんてしたくない。もう遅い時間だし迷惑だろうに、声が聞きたい。
依存、でもいい。何でもいいから助けてくれよ、マイヒーロー。限界だとばかりに全力で鼻をかむ私は、どうしたってヒロインでもなければ君は助ける義理なんてない。やっぱり、忘れておくれ、マイヒーロー。
それに、前の電話での私の物言いにまだ怒ってるかもしれない。私の今の話を聞いたら呆れるかもしれない。情けなくて寂しくてたまらなくて、涙が止まらない。冷えた腕をさすっていたら、電話が鳴った。
「もしもし」
「夜分遅くに失礼します。もうおやすみでしたか?」
「……ううん、大丈夫」
「……泣いてるんですか。何かありましたか」
優しい声がする。それだけでまた涙が出た。止まらなくて、ずっと嗚咽しか出ない私を待って、大丈夫です、待ってます、だなんて。なんかもう、私のお母さんか何かかよって思っちゃって、そういえば前もそんなことを考えたなって。なんにも変わらないんだって、なんだか笑えてきた。本当に君というやつは。笑ってたら、忙しい人ですね、って穏やかに笑われた。笑って、泣けた。
「電話かけてもらっといて申し訳ないんだけど。今から君に、情けない話をしたいんだ、いいかな」
「構いませんよ、聞きましょう」
私は嗚咽を交えながら、今日の今までの話をした。まずはハナちゃんの話から。もやもやも言えない、情けないまま友達でいること。彼女に言われて、彼に電話ができなくなっていたこと。それでももうずっと彼に助けられて、それでいて今も頼っているのが申し訳なくなっていること。危ない場所に行ってしまったこと。それまでも馬鹿なことをしてしまったこと。馬鹿なことに何もできなかったこと。注射器の針が腕に触れて、それがちょっとでも悪影響を及ぼすんじゃないかって、不安でたまらないこと。彼は静かに聞いてくれた。
「なかなかに、大変な一日でしたね」
「……呆れたりしないの?」
「しいていうなら一つだけ、叱っておかなければならない話がありますかね」
う、っと言葉に詰まった。信頼があるだけに、ある意味母親のお叱りよりも怖い。
「……アカリさんは、医者の処方した薬と一般人の適当に選んだ薬、どちらが信用できますか」
「それは、医者でしょ?」
「なぜ?」
「信用できるから……?」
「では、人の気持ちについて、会ったことのない人と本人の言葉、どちらが信用できますか」
「……」
「もちろん、アカリさんが素直に信じられない理由も、要因もわかっているつもりです。ですが、僕の知らないところで話をすすめられるのは寂しいです」
ぐうの音も出ない彼の言葉に、私は素直に謝るしかできない。彼はなんにも言わず、かと思えば小さく何かを呟いたが携帯越しではわからなかった。聞き返すと、なんでもないですよ、なんて言う。
「アカリさんと話すのが億劫なら、僕はちゃんと言うはずです。言いたいことを言う電球だと、思ったことがあるでしょう」
「わかってたはず、なんだけどね」
「そんなこともあります。今回はまあ、ひとまずは大事にならなくてよかったです。アカリさんの勇気に感謝ですね」
「……違うんだ」
「……と言いますと」
「君の言葉を前に、真似したことがあるでしょ。嫌な人に似たくないって。今日は、こうありたいって思ったの。誰かに大切にしてもらった自分くらい、守れる自分でありたいって」
「素晴らしいと思いますよ」
「そう思ったのも、君のおかげなんだよ」
「……光栄です」
重くない?なんて聞くのは、少し野暮だと思った。そこまで言われなきゃわからないやつでありたくないし、彼が相手なら、たとえうぬぼれでもいいと思った。勇気を出した自分を、少し誇らしく思える。それだけ、今はよかった。腕に触れた小さい針は、いつの間にか溶けて忘れられたらしい。
「そういえばなんで電話かけてきたの」
「……ああ、実はですね、」
珍しく彼が言葉を濁した。ひょっとして私の一日以上に何か大きなことでもあったのではないかと、急にひやりと背中に嫌なものが伝うのを感じながら彼の言葉を促す。
「……最近なかなか電話をしていただけなくて、アカリさんも忙しいのかとは思いましたが、」
「貴女は放っておいたら、どこか高いところから飛び降りてしまいかねないので、ええ」
「そう思うと、怖くなってしまって、いてもたってもいられず電話してしまいました」
本当に珍しく、彼がたどたどしく言葉を紡いでいく。その言葉が、パズルのピースみたいにぱちんとはまっていく度に、どっと心臓が騒がしくなる。首筋のあたりがむず痒く熱を持って、その言葉の一つ一つが堪らなかった。
「もし、そんなことをしそうになってたら、今度こそ怒るんじゃない」
「いいえ。ただ、これだけは伝えて引き留めたいと思ってます」
「何?」
「まだあなたのおうちの、お風呂の電球の取り換えに伺っていませんから、と」
「……」
「…今なら自家発電する電球も、無料で」
「……とりあえず、君のことで悩んでいた私はとてもバカだったんだなって、よくわかったよ」
「んふふ、そうですよ。アカリさんが思っているより、僕は貴女が好きです。貴女の話を聞くのが好きですから、悩まないでください」
「……う、ん」
「どうです、この際、電球を対象圏内に入れてみるというのは」
「……まあ、考えておくよ」
「……んふふ、光栄ですね」
「そういえばさあ」
「はい」
「……どうやって君は今電話してるの」
「……えー、まず端末にイヤホンを差しまして」
「待ってもっとわかんなくなった」
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