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それは7月1日の、放課後ことでした。わたしは、学年主任の井波先生に呼ばれて、生活指導室に行きました。井波先生はお一人で、わたしを迎えました。
嫌な予感はすぐに当たります。井波先生は乱暴に、わたし達の『交換日記』を机に叩きつけたのです。
「お前、これはないよ」
気持ち悪い一言でした。井波先生の外見ではなく、今までのやりとりから、先生の性格が大変気持ち悪いと判断したので、つい嫌悪感が出ます。それは、ちゃんと会話を交わしたうえでの判断なので、理不尽ではないと思いたいです。
わたしが何も言わないでいると、井波先生はため息をつきます。下を向かず、まっすぐにわたしを向いたまま口を開くので、息がかかって不愉快です。ため息を吐き終えると、井波先生は読み捨ての雑誌みたいに、わたし達の交換日記をめくります。
「ほとんど、悪口ばっかりじゃないか。あだ名付けたりイニシャルにしたりで誤魔化しているつもりだろうけど、読めばどこのクラスの誰だか、一発で分かるぞ」
本名をそのまま書いたら余計苛立ちそうだから、あえてぼかしたという発想はないようです。
「それは」
「しかも、自分たちはさも美人みたいな名前にしているところが根性悪いよな」
せっかく解説しようにも、井波先生は畳みかけるように、というか、一方的にダメ出しを続けます。
「浅海良子、媚山辰美、弓木敏江。ごりょ……親御さんが考えてくれた名前を否定するみたいに、変にぶった切ってあだ名にするなんて、申し訳ないと思わないのか」
「……」
「まあ、自分たちを美人だと思い込むのは良い。でも、実際の美人をそうでもないと嘘を吐くのはよくない」
ぱらぱらとページをめくり、あるところで井波先生は手を止めます。
「しかも、お前たちの仕返しを『リューゲル』なんて、架空の生き物のせいにするのが良くない」
「仕返し」
「そうだ」
井波先生は、仰々しくうなずくと、交換日記を手に取って読み上げました。先生としては情感たっぷりのつもりだったようでしょうが、わたしには三流以下の独りよがりな芝居を延々を見せつけられている気分でした。この人が学校の先生じゃなく、通りすがりの大人だったら「へたくそ!」と罵声を浴びせていたことでしょう。
けれど、学校の先生。しかも、体が大きく力の強い男の人なので、わたしは黙るしかありません。反撃出来ないことぐらい、分かり切っているからです。
井波先生は、一方的な芝居を終えると「どうだ?」と訊いてきました。
「バカみたいだと思わないか? お嬢さまぶった自分たちを守る、不思議な生き物。本当は、意地悪な同級生をとっちめたのはお前たち自身なのに、それを不思議な生き物のせいだと捻じ曲げている。それはな、いつか、お前たちを歪めるぞ」
「歪める?」
「そうだ。自分の犯した罪を認めないなんて、一番やっちゃいけない事だ」
「そうなんですか」
じゃあ、わたしの持ち物を隠したり、ミキちゃんやマユちゃんに意地悪した人達は? 目の前で起こっているのに、トンチンカンにわたし達をお説教してきた井波先生は?
「だいたい、お前たちはみっともないんだよ。つまるところ、僻みだろ? ここに書かれた生徒は、美人で金持ちで、幼稚園からのエスカレーター組だからな」
「……先生は、わたし達がブスで貧乏だから、彼女たちに意地悪したというんですか?」
「そこまでは、言ってない」
「じゃあ、どんな理由だと思ったんですか?」
「そんなの、俺が知る訳ないだろ。話してもらわないと」
じゃあ、とわたしが口を開こうとすると、またも井波先生が話し始めました。
「お前たちが努力の末に、この学校に合格したことは知っている。特に、お前。浅海が入学以来ずっと学年トップの成績でいることはすごいことだ。でもな、だからって、勉強以外を頑張っている生徒や、裕福な家庭に生まれた生徒を僻むことはないんじゃないか?」
「……先にしてきたのは、彼女たちです」
「証拠はないだろ。この日記は、嘘ばかりだ」
「嘘じゃありません!」
わたしは交換日記をひったくった。
「なにするんだ! 教師に向かって!」
「他人の日記を読むなんて、プライバシーの侵害です!」
「犯罪の証拠なんだから、そんなの関係ないだろ!」
井波先生が机を叩いたので、とっさにわたしは立ち上がる。机を投げつけられても無事でいられるよう、逃走経路を探す。
「ほら。ほらほら!」
井波先生は怒鳴るように早口でしゃべり、顔をニヤつかせます。
「そうやって目を泳がせるのは、やましいことを考えている証拠だ! お前たちは妬んでいたんだ。美人でバレエのできる宮城華絵や読者モデルの小早川エリスを!」
「他人を平気で踏みつける人達ですよ!」
「現実を見ろ! お前たちはないものねだりをしているんだ! 欲しかったら手に入れる努力をしろ! それが出来るはずだ!」
「バカなこと言わないでください!」
持ち物が隠されないか、少しでもヘマをしたら馬鹿にされるんじゃないかとビクビクする毎日だ。
わたし達は、彼女たちを羨んだことはあっても、蔑んだり馬鹿にしたりもしていない。意地悪なんて、されるまでしようとも思わなかった。
どうしようもない平行線の会話だ。井波先生は、なんとしてでもわたしを犯人にするつもりだ。
「片親の媚山の家事を、褒めていたじゃないか! 猫背で自信なさげな弓木を気遣って、クラス中で改造計画してたんだぞ!」
「じゃあ、わたしの持ち物がいつも下駄箱で見つかるのは!?」
「お前がだらしないからだ! 八瀬達が言っていた!」
井波先生が「信じる」といった名前は、すべて、エスカレーターで進学した生徒たちだ。幼稚園からこの学校に通う、裕福な家に生まれた子。先生との付き合いも、ずっと長かったんだろう。
わたしは交換日記を抱えたまま、指導室の入り口へ駆ける。けれど、寸前のところで井波先生に立ち塞がれてしまう。
「認めろ、浅海。確かにこの世にはどうしようもない現実がある。でもな、目を逸らしたままでは、解決できないんだぞ」
そんなこと、とっくに知っている。知っていることを改めて、仰々しく解説されるなんて、不愉快だ。それも、一番現実を見ていない大人なんかに。
「不思議な生き物なんていない。お前たちは、勝手な被害妄想から、自分たちより恵まれた同級生たちを陥れたんだ。今ならまだ引き返せる。な、謝ろう?」
井波先生は、気持ちの悪い笑顔でそう言いました。顔の造作のことではありません。最後まで不平等性を欠いた正義を振りかざしているところが、たまらなく気持ち悪いのです。
「ありもしないもののせいにするなんて、碌な大人になれないぞ」
「あったことを見抜けない、間抜けな大人が言うんですね」
わたしの言葉に、井波先生はぽかんと口を開けました。理解される前に、わたしは一気に言います。
「媚山さんがいつも掃除しているのを見ても、弓木さんが持ち物をバカにされるのを見ても、あなたは押し付けた方、馬鹿にする方ばかり庇いましたね。どっちが意地悪しているかなんて、見ればすぐに分かるじゃないですか!」
「……なんだ、お前」
ぽかんとしていた井波先生は、やっと言葉を出しました。
「俺に庇われないから、拗ねていたのか」
「気っ持ち悪い!!」
大声で言って、突き飛ばします。けれど、大の大人なので簡単には倒れません。ちょっとよろけただけです。
反抗されたことに腹を立てたのか、井波先生は「なにするんだ!」とまた怒鳴ります。
わたしは、必死に手を伸ばします。指導室のドアを開けるため、ドアノブへ。そこに、井波先生の手が近づきます。こんな手に触れたくない。けれど、逃げたい。二つの思いがまぜこぜになって、ドアへ伸びる勢いが消えていきます。
「素直になれよ、なあ!」
「助けて! リューゲル!!」
こんなところで、こんな男と一緒にいたくない!!
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