ボクのマルタ、私のマルタ

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 アングリアの空から降る雨は、長くしつこい。この時期の雨は、特にそうだ。霧のように細かな雨粒が風に煽られながらふわふわと落ちてきて、ようやく伸び始めた新緑の草花をびっしょりと濡らす。けれども、それほど陰鬱ではないし、むしろ爽やかな感じさえする。  でも、ボクはなんとなく憂鬱だった。いや、どちらかと言えば不安な心地がしていた。理由のない、上手く言い表すことのできない不安感が、ボクの心の中を満たしていた。  初夏の雨を浴びようと、幼い仲間たちは狭い格納庫から外に出て、きゃあきゃあと歓声を上げている。芝の上を転げ回ったり、翼をバサバサと羽ばたかせたり、仲間同士でじゃれあったり。  ボクたちはまだ若い。体はとても大きくて、いつもエネルギーを持て余している。許されるならば毎日でも出撃をして、果てしない大空を急上昇したり急加速したり、敵を追いかけ回してエネルギーを発散させたいのだ。  少し離れたところに、何人か男の人が立っている。彼らは黒い傘をさしていて、嫌な臭いのするタバコを吸いながら、ボクの仲間たちが遊んでいるのを飽きることなく眺めている。  ボクの耳は、彼らが会話する低い声をしっかりとキャッチすることができた。 「こんな雨の日なのに、ドラゴンというのはまったく元気で無邪気なもんだ。うちの子犬と変わらないよ」 「子犬にしちゃあ少し大きすぎるがな。うっかりじゃれつかれでもしたら死んじまう」 「聞いたところによると、サーカス団員の中で一番死にやすいのは調教師らしいな。懐かれて、じゃれつかれて、潰されちまうらしい」 「割に合わねぇ仕事だな。ドラゴンを扱うってのに。危険手当も出ねぇんだろ……」  あまり面白い話でもないので、ボクは気を取り直して読書に戻ることにした。目の前には大判の聖書が書見台に拡げられている。二ヶ月ほど前から読み始めたものだ。  ふっと軽く息を吹きかけてページをめくると、そこにはちょうど、こう書かれていた。 「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」  その言葉に、ボクはハッと胸を突かれる思いがした。マルタ、それはボクの名前。まるで、聖書の中で、ボク自身がそう言われたかのような気持ちがした。  多くのことに心を配って思い煩っている。確かに、その通りかもしれない。ボクは他の仲間たちと比べて頭が良い。だから、人間たちのように考えて、人間たちのように思い悩んでいる。今日だって何も考えずに外に出て、気持ちの良い雨を思う存分浴びれば良いのに、なんだか不安な気持ちが消えなくて、たった一人格納庫に残って聖書を読んでいる。  その時、コツコツとコンクリートを踏む足音がして、誰かがこちらへとやって来た。長い首を巡らせてそちらを見ると、そこにいたのはもう一人のボクだった。  小さくて翼を持たない、スラリと細い体をした、人間のボク。もう一人のマルタだ。長くて綺麗な金髪、雪のように真っ白な肌。氷のようにキリリとした顔立ちなのに、目つきはどこまでも温かい。優しくて甘い、人間の女の子の匂いがする。彼女はかっこいい黒い軍服の上に、茶色の飛行ジャケットを羽織っている。  マルタはボクの顔のそばに立つと、そのほっそりとした手と指で、ゆっくりと体を撫でてくれた。低い、それでいてよく通る声で、彼女はボクに話しかけた。 「聖書を読んでいたのか、マルタ。偉いぞ。でも、仲間たちと一緒に外で遊ばないのかい?」  今日はあまり気分が良くないの。そういう気持ちが、フンとボクの鼻から漏れ出た。息は聖書にぶつかって、パラパラとページを送らせた。  そんな様子を見て、マルタは苦笑いをした。ボクを撫でつつ、彼女は言葉を続ける。 「そうかそうか。まあ、気分が乗らないのなら仕方ない。それに、君は頭が良いからな。他の娘たちとは気が合わないんだろう。ところで……」  一旦言葉を切ると、彼女は歩を進めてボクの正面に回った。そして、その紫色の瞳でボクの目を覗き込むと、一段と真剣な面持ちで言った。 「明日の作戦はちょっと厄介そうだ。これまでのどんな戦いよりも辛いものになるかもしれない。私も、全力を尽くすつもりだ。マルタ、君も頑張ってくれるね? この戦争に生き残って、生まれ故郷のポルスカに帰るために、君も私に力を貸してくれるね?」  もちろん! ボクはゆっくりと、右目だけで瞬きをした。マルタはふっと笑ってくれた。 「良い子だね、マルタ。とっても素直で、頑張り屋さんのマルタ、もう一人の私。心配しないで。私と君なら、絶対にニェムツィ人たちの空から生きて帰ることができる……」  マルタの声は、ボクの心にすうっと染み渡っていった。あたかも、外の雨が大地を濡らして潤いを与えるのと同じように。朝からなんとなく気もそぞろで落ち着かなかったボクの精神は、いつの間にか朝焼けに照らされた静かな海辺のように、平穏を取り戻していた。  子守歌を歌うように、マルタがボクに囁いている。 「私たちは、ずっと一緒だ。これからも、そして死ぬ時も……」  
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