ボクのマルタ、私のマルタ

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 ボクがこの世に生まれたのは六年前。人間たちの暦では1937年のことらしい。東エウロパ大陸のポルスカ国、その中央を流れる大河ヴィスワ川のほとりにあるマルボルクという街の外れで、ボクは生まれた。  生まれて初めてボクが見たのは、人間の女の子だった。女の子は何も服を着ていなくて、裸だった。なぜか目を拭っている。ボクの鼻は湿っぽい匂いを嗅ぎ取っていた。涙という言葉は、その時はまだ知らなかった。  彼女は手を伸ばして、生まれたばかりの粘液にまみれたボクを抱き上げると、そっと抱き締めて頬をすり寄せてくれた。 「よく生まれてきてくれたね、待っていたよ。私はマルタ。マルタ・コニェツポルスキ。これからはずっと、君と一緒だよ」  柔らかい唇で、マルタはボクにそっとキスをする。その意味が分からなくてただ目を瞬かせているだけのボクを、彼女はさらに持ち上げて自身の眼前に掲げた。 「……ふむ、確かにないな。ハイブリッド種はやはりすべてメスか……ああ、ごめんね。君は女の子なんだね。なら、名前はどうしようかな……」  突然不安定な体勢になった上に、心地よい温もりも消えてしまって、ボクはとても不安な気持ちになった。それを紛らわせるために短い両脚をバタつかせると、同時に喉からキィキィ、ピィピィという声が漏れた。 「ああ、すまない。よしよし、良い子だ……」  マルタはまたボクを抱いてくれた。ふっくらとした胸がボクを優しく包んでいる。しばらくマルタは無言で何かを考えていたが、やがてボクを抱き直して目と目を合わせると、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を発した。 「決めた。君の名前はマルタ。私と同じ名前だ。飛行士にとって、ドラゴンとは一心同体。何があっても決して離れない、血筋よりも濃く親子よりも強い絆で結ばれた仲。だから、君のことは私と同じ名前で呼ぶよ」  そして、それから何度も見ることになる、彼女特有の優しいながらも気高い笑みを浮かべた。 「これからよろしくね、マルタ」  ここまでのボクの語り口を聞いて、生まれた直後なのにずいぶんとはっきりと物事を見ることができて、言葉もしっかり操ることができるものだと思う人もいるかもしれない。だけど、それは間違いだ。ボクは普通のドラゴンと同じく、いや、それどころか、普通の人間の赤ん坊と同じく、生まれたその時はボンヤリとしていた。  このように語ることができるのは、ボクが人間の言葉を知っていて、それによって記憶を再構成することができるからだ。  ボクは、普通のドラゴンとは明らかに違っていた。例えば、他の子たちの頭には角が二本しか生えていないのにボクの頭には三本生えていたし、何より、人間の言葉を自然と理解することができた。  マルタがボクに言葉を教えてくれた。彼女はいついかなる時でも、ボクを抱いて、ボクに話しかけてくれた。散歩をしながら、花の名前、動物の名前、天気と風の名前を教えてくれて、夜は絵本を読み聞かせてくれた。ボクがそのうち大きく重たくなって腕に収まらないようになっても、彼女は言葉を教えるのをやめなかった。  ある日、枯れ草色をした立派な軍服を着た男の人がやってきて、マルタに話しかけた時のことをボクはよく覚えている。 「コニェツポルスキ少尉、もう一人のマルタの具合はどうだね? 順調に成長しているかね?」 「戦隊長殿、もう一人の私はすくすくと成長しております。今でははっきりと、人間の言葉を理解しております。空を飛べるようになるまでに、十歳児相当の語彙力を獲得できるでしょう」 「なるほど、素晴らしいな。流石は特別に取り寄せたアングリア・フランツィアのハイブリッド種だ。自律的思考能力を獲得すれば、空中戦において既存のあらゆる兵器を凌駕する戦闘力を発揮できるだろう。何しろ、高性能な火器管制装置を積んでいるようなものなのだから……」 「ええ、私の自慢の娘です」 「ハハハ! 『娘』と君は呼ぶのか。自分の素肌の温もりで卵を孵したのだから、それも当然か。やはり君に任せて正解だった。これからもしっかりと頼むぞ。最近は国境の空が怪しい。いつニェムツィ人とZSRRが攻めてくるか分からん。噂によれば、奴ら秘密協定を結んだらしいからな……」  マルタはボクのことを自慢の娘と呼んでくれたけれども、ボクはあまり自分のことを誇れなかった。というのは、臆病で怖がりな性格をしていたからだ。  まだ飛ぶことができず、しかしもう自分の両脚で歩けるようになったある日のこと。ボクはマルタと一緒に草原を散歩していた。ちょうど花々が綺麗に咲き乱れている頃で、ボクはその香りを楽しみ、周りを飛ぶ虫たちの乱舞を眺めながら歩いていたのだが、突然目の前に出てきたあるものを見て、体が凍りついた。  それは猫だった。大きな黒猫で、耳の片方が裂けている。口には既に息絶えている野ウサギを咥えていて、赤い血がぽたぽたと滴っていた。どうやら狩りを終えて寝ぐらに帰るところのようだ。  思わず、ボクの口からピィッという鳴き声が漏れた。野ウサギから流れ出る血の臭いがあまりにも強烈で生臭く、それに猫の極端に細い瞳がとても恐ろしかった。ボクは大急ぎでマルタの足元に駆け寄ると、頭を彼女の靴の間に潜り込ませた。  そんなボクにマルタは呆れることもなく、しゃがみこむと、頭をそっと撫でてくれた。 「よしよし、怖がることはない。あれはただの猫だ。君よりも体が小さくて、爪も牙も短い。何も怖くないぞ。ほら、もうあっちの方へ行ってしまった……」  体がもっと大きくなって翼が伸び、爪も牙も鋭くなって、空を自由自在に飛べるようになってからは、ちっぽけな猫にまで怯えるような臆病さは消えたけれども、怖がりなのはあまり変わらなかった。  初めて空中射撃訓練に出たその日、ボクは吹き流しの標的を曳航する飛行機の爆音が何とも恐ろしくて、顔を真っ直ぐにしていられなかった。飛行は乱れがちになり、照準がどうしても定まらない。けれども、ボクの背中の操縦席に座っているマルタは苛立つこともなく、叱咤激励してくれた。 「もう一人の私よ、怖がるな! あんなのはただの機械だ! 変な音を立てるだけの、ただの機械! 君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではない! さあ、顔を真っ直ぐにしろ! 弾を当てるんだ!」  不思議なことに、マルタの声を聞くとボクの心はいつも安らかになる。その時も、そう言われた直後から飛行機がまったく怖くなくなった。ボクはぴったりと吹き流しの後方30メートルにつけることができて、マルタは50発の訓練弾のほとんどを標的に命中させることができた。  ボクはその後もマルタと一緒に飛び続けた。ある時は単騎で、ある時は他のドラゴンと飛行士たちと一緒に編隊を組んで、ボクは色んな飛び方を学んでいった。急上昇、急旋回、急降下。息も凍るような高高度と、地虫も見えるほどの低空。日差しの強い昼間と、星々の煌く夜空。機関砲の撃ち方、写真の撮り方、爆弾の落とし方…… 「すべては敵を倒すために、マルタ、君は飛ぶんだ」  マルタはしばしば、ボクにそう言った。敵というのはよく分からなかったけれども、ボクは彼女のことを信じていたし、彼女と一緒なら何も怖くはなかった。敵を倒すのも、たぶん吹き流しを撃つのとそんなに変わらないのだろうと思った。  そんな生活が二年続いた。そして、遂に敵がやってきた。  前夜から人間たちは苛立っていて、ピリピリとした雰囲気が飛行場に漂っていた。明け方、耳障りなサイレンの音が響き渡ると、ほどなくして人間たちがバラバラとどこかから駆け寄り、また散って、どこかへ去っていった。  少し経ってから、薄く油の臭いのする青い服を着た整備兵たちがやってきて、ボクたちの背中や翼に次々と装備を取り付けていく。混合濃縮エーテルタンクの中身が満たされて、機関砲には弾帯が挿し込まれる。重たくて分厚い装甲板が操縦席の周りに立てられて、ボクの頭にも鋼鉄製のヘッドギアが装着された。  周りの子たちはガチャガチャと体を捩り、ギャアギャアと鳴き声を上げて騒いでいる。しかし、時間が経つにつれて次第に大人しくなっていった。代わりに漂ってくるのは、不安な気持ちの混ざった匂い。みんな、自分のパートナーが来てくれるのを待っている。  半時間ほどして、飛行士たちがやってきた。全員暖かそうな飛行服を着ていて、純白の長いマフラーを首に巻いている。マルタの出で立ちもまったく同じだった。彼女はボクの頭をいつものように優しく撫でると、目を覗き込みながら、なんということはないというふうに言った。 「いよいよ敵が来たよ、マルタ。大丈夫、訓練通りにやれば何も問題はない。帰ってきたら、美味しいお肉を食べさせてあげるからね」  返事の代わりに、ボクはフンと一つ鼻息を吐いた。マルタは満足そうに頷いた。 「さあ、行こう。侵略者たちに、『ポルスカ共和国空軍ここにあり!』と思い知らせてやる」  その日、ボクとマルタは初陣でありながら、敵であるニェムツィ人の大きな爆撃機を一機、小さな戦闘機を二機撃墜した。  初めに見えたのは、爆撃機の大編隊だった。訓練通りに体を動かして射撃位置につくと、マルタは狙い澄まして機関砲を発射した。大量の爆弾を抱えた爆撃機はボクたちの射撃を受けると、鉄の翼の付け根からメラメラと火炎を吐き出して、数秒後には大爆発を起こした。  自分たち自身でそんなことをしでかしておきながら、ボクは呆然とそれを眺めていた。敵というのは、こんなにも脆いのか。そう思った。周りを見ると、仲間たちも次々と敵を爆発させている。地上には撃ち落とされた敵機の残骸が突き刺さっていて、真っ黒な煙を上げていた。  急に、上空に何かの気配を感じた。それと同時に、背中のマルタが鋭く叫んだ。 「マルタ、上だ!」  操縦桿の指示が翼に伝わるのを待つまでもなく、ボクは体を急旋回させた。その次の瞬間、無数の緑色のシャワーがそれまでボクの翼があったところを通り抜けて行った。敵の戦闘機が上から撃ってきたのだった。  それからは、無我夢中だった。ボクたちと敵とは狭い空に入り乱れて、追いつ追われつ、撃ったり撃たれたりを繰り返した。ようやく空が静かになった後、ボクたちはバラバラになって飛行場に帰った。  地上に降り立つと、操縦席から下りたマルタが、労うようにボクの頭にポンポンと手を当てた。 「よくやったね、マルタ。明日もこの調子で頼むよ」  ボクたちはそれから一ヶ月あまりの間、毎日飛び続け、毎日敵と戦った。マルタのおかげでボクは傷一つ負わなかったし、かなりの数の敵を撃ち落としたけれども、仲間たちは次第に減っていった。  珍しく出撃のなかった日、格納庫で上等な肉を食べているボクのところへマルタがやってきて、にやりと笑みを浮かべつつ新聞を見せてくれた。 「これを読んでごらん、マルタ。私たちのことが書かれているよ」  ボクはマルタから文字を教えてもらっていたし、毎日暇があれば本を読んでいたから、難なくそれを理解することができた。 「空の有翼騎兵、歴史的大勝利!! 卑怯卑劣にして残虐なるニェムツィ軍に対し、我が軍は陸に空に必死の抵抗を繰り広げているが、その中でも輝かしき戦功を打ち立てているのが、『空の有翼騎兵』として名高い、飛行第111中隊である。同中隊は既に大小合計200もの敵機を撃墜している。特に目覚ましい活躍をしているのは女性飛行士であるマルタ・コニェツポルスキ中尉で、彼女は自身と同じ名であるドラゴン、マルタに騎乗して、これまでに爆撃機五機、戦闘機九機を撃墜している。二人のマルタは、まさにポルスカの空の守護者であろう……」  誇らしい気持ちがボクの中で膨らんだ。ふんと鼻息を漏らすと、新聞紙は遠くへ飛んで行ってしまった。それを見たマルタは、とても久しぶりなことに、声を上げて笑っていた。  ずっとこうして飛び続け、戦い続けることができれば良かったのに、状況はそれを許さなかった。ポルスカ軍の決死の抗戦も虚しく、ニェムツィ軍は進撃を続けていた。ブズラ川でボクたちの軍隊は破滅的大敗北を喫し、その上東の国境からはZSRRの軍隊が押し寄せていた。  ボクたちドラゴンと飛行士は、外国に脱出することになった。最後の日、マルタはボクに首都ヴァルシヴァの上空へ飛ぶように言った。眼下の市街地は連日爆撃を受けていて、ところどころに火災が起きて煙を上げていた。  死にかけている街を、しばらく二人で眺めた。その後にマルタが呟くように言った言葉が、妙にボクの耳に残った。 「父さん、母さん、妹たち。みんな、さようなら。どうかお元気で。私はいつか、きっと帰ってきます。きっと生きて帰って、またみんなに会いに行きます。それまで、どうか生き延びてください……」  それからボクたちは山を越え、海を越え、いくつもの外国を転々として、一年後にはエウロパ大陸の西の海に浮かぶ島国、アングリアに身を落ち着けることになった。  ちょっとだけ休むことができたけれども、ここにも敵はやって来た。空を覆い尽くすほどの爆撃機の群れと、それを守る無数の戦闘機。敵は爆弾を落としてアングリアの街を焼き、多くの人を殺した。ボクたちは外国人航空隊の一員として敵を迎え撃った。  今は、1943年。ボクとマルタは、未だに元気だった。ポルスカから一緒に飛んできた仲間たちの多くは大空に散って、ほとんど残っていない。ドラゴンたちは新しく生まれた子たちに交代している。  敵は飛んでこなくなった。代わりに、ボクたちが敵の国の空へ攻め込むようになった。遠い遠い敵の都市に爆弾を落としに飛んでいく、アングリアの大型爆撃機を護衛するのがボクたちの任務。  味方を守って飛ぶ夜空は、明るい月と満天を彩る星々が美しかったけれども、危険も多かった。地上からはサーチライトと高射砲の射撃、空には敵の夜間戦闘機。それに、燃え盛る地上からは焼けて焦げた肉の臭いが絶えることなく漂ってくる。  マルタは「こんなのは私たちの本来の任務ではない」とよく言っていた。彼女が言うには、ボクたちが実力を発揮するのは対戦闘機の戦いであって、護衛任務ではないらしい。でも、普通の戦闘機の三倍以上の距離を飛べるドラゴンにしか、護衛はできないとのことだった。  ボクは次第に消耗して、元気が無くなってきた。前は空を飛ぶのが好きだったし、敵を追いかけるのも怖くなかったのに、最近はどうしても気が進まない。肉もさほど食べたいとは思わなくなった。マルタが飛んでくれと言うから、ボクはなんとか飛んでいるような状態だった。  そんなボクを見かねて、ある日マルタは「散歩に行こう」と言ってくれた。任務でも訓練でもない、思うまま自由に大空を飛び回る散歩。ボクは嬉しくなって、ゴロゴロと喉を鳴らした。  人間が生きたまま焼かれる臭いもせず、撃たれることもない飛行は、とても楽しかった。海の波が午後の日差しを受けて、きらきらと光を反射して輝いている。平穏なアングリアの空をマルタと一緒に駆け抜けるのは、夢のような気持ちがした。  操縦席のマルタからも、楽しげな様子が伝わってくる。 「気持ちが良いね、マルタ。ここ最近は過酷な戦いばかりで、君には苦労をかけた。いつか世界が平和になって、ポルスカに帰れる日が来たら、今度は機関砲や爆弾ではなくて、子どもたちを乗せて一緒に飛ぼう」  ボクはぎゅるぎゅると喉から唸り声を出した。約束だよ、と言いたかったのだ。マルタはそれを分かってくれた。 「ああ、約束だ。必ず君と一緒にポルスカに帰るよ……む? なんだ、あれは?」  それはボクたちから見て一時の方向、距離7,000メートルほどの低い空を忍びやかに飛んでいた。大陸側の海からアングリアの海岸の上空に侵入している。  グンと速度を上げて近づき、並走するようにして飛ぶと、よりはっきりとその姿を見ることができた。葉巻のような太い胴体から四角い不格好な翼が突き出していて、背中には火を噴く大きな物体を背負っている。不思議なことに、コクピットもなければ飛行士も乗っていない。  これは、何だろう? そう思っていると、突然マルタが叫んだ。 「これは、ニェムツィの飛行爆弾だ!」  敵の新兵器、飛行爆弾。ボクもそれを知っていた。前にマルタから話してもらったからだ。パルスジェットエンジンというものを積んでいて、飛行士もいないのに飛び、目標地点上空に達すると墜落して爆発する。これまでにも何発かが首都に落ちていて、死者が出ているらしい。  ボクは急に恐怖に襲われた。飛行爆弾のエンジン音は、それまでに聞いたことのない、ぞっとするような響きを持っていた。得体の知れない怪物がボクの隣を飛んでいる。その中身は大きな爆弾で、いつ爆発するか分からない……  怖気づくボクを立て直したのは、やっぱりマルタだった。彼女は至極冷静な口調で、ボクに指示を出した。 「マルタ、怖がるな。こんなのはただの機械だ。変な音を立てるだけの、ただの機械。君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではないだろう? さあ、こいつの翼に、君の翼の端をちょんと当ててやれ。そうしたらこいつはバランスを崩して落ちるだろう。下には民家もない。遠慮なくやってやれ」  安心して、ボクは言われた通りに翼を当てた。飛行爆弾は途端に姿勢がおかしくなって、胴体を軸にしてくるくると回転し始めると、真っ逆さまに下へ落ちて行った。何もない平原に墜落すると同時に、飛行爆弾は大爆発を起こした。  ほっと一息ついてから、マルタが低い声で言った。 「これからはもっと飛んでくるかもしれないな……ニェムツィ人め、よくぞ人殺しの方法ばかり新しく考え出すものだ……」
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