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「わっ、私の直前に弾く順番の人! もう演奏終わっちゃったんですか? 早く舞台に行かなきゃ」
勢いよく起き上がると、ワタワタとした動きで控え室を出ていく。呆気に取られた雪人が何も言えないでいると、今度は走って戻ってきて、 雪人の前で頭を下げた。
「ぶつかっちゃってごめんなさい。手にお怪我はないですか?」
ハッとする。ピアニストにとって手は命だ。思わず指を動かし、支障がないことを確認する。
「俺は大丈夫だ。……お前は? 今から演奏するんだろう」
答えると、少女はふわりと笑って手を振った。
「よかった。私は大丈夫、演奏を聞いたら分かりますよ」
そのまま踵を返す。雪人はますます唖然とした。コンクールで、同じ出場者に自分の演奏を聞けというやつがいるか。どれだけ自信があるんだ。
けれど、胸底から何かが湧き上がってきて、彼は少女の後を追った。彼女は既に廊下を歩き切り、舞台袖を抜けてスポットライトの当たる舞台上へ足を踏み入れていた。
スタッフに眉をひそめられながら、雪人は舞台袖から少女の様子を窺う。
表情は見えないが、背筋がすっと伸びていて、いい後ろ姿だった。少し天井を見上げていたかと思うと、少女の腕が上がり、指が鍵盤に落とされる。
その一音を聞いた瞬間、雪人の全身に鳥肌が立った。
ショパン、エチュード第三番。「別れの曲」。
甘い旋律が印象的な、美しい曲だ。
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