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プロローグ 願わくは、この女性が日だまりの中を堂々と歩けんことを
日だまりの中を、小さな犬が歩いている。
飼い主より前に出たり、少し後ろになったり。
ケアマネージャーは、病院の2階の窓から近くの道路を見下ろしていた。お散歩中の犬の姿が見えなくなると、視線は自然とナースステーションの方へ向いた。
メディカルウエアを着たスタッフは、せわしなく働いている。
患者でも面会者でもない人から見られていることに気づかずに。
「……だから、注射を間違えんなって、言ったんに」
入院患者本人に何度も言い聞かせている言葉が、無意識のうちにこぼれ落ちた。
担当している高齢者が意識障害を起こして救急搬送された。
糖尿病のため普段からインスリン注射をしていた人だった。意識障害の原因も、インスリン注射の種類を誤ったことによる低血糖。
同居の家族からケアマネージャーに連絡があり、職場からこの病院に駆けつけたのだった。
入院の手続きは済み、家族はすでに帰った。自分もそろそろ職場に戻らなくてはならない。
ナースステーションから離れ、階段を探す。
階下に降りようとしたときだった。物が倒れる音と、絹を裂くような悲鳴が聞こえたのは。
市内の病院で、看護師が刃物で襲われたらしい。
昨年耳にしたその話を思い出し、声のした方へ向かった。
人気はなく、点滅する蛍光灯の下に、誰かいる。
ひとりは、中年の男だった。病院指定の入院着を着ている。
その男が壁に追い込んでいるのは、服装と体格からして若い女性スタッフだ。
ケアマネージャーは男を捕まえようとしたが、すぐに逃げられてしまった。
「……色惚けしてんじゃないわよ、まったく」
ケアマネージャーは思ったことを率直に呟き、しゃがみ込んだままの女性スタッフに目をやる。
オフホワイトのカーディガンは肩が抜けていた。おだんごにまとめた黒髪と、つつじ色のスクラブ、ホワイトのストレートパンツは乱れていないが、スラックスと同色のカバースカートは不自然にたくし上げられていた。
ケアマネージャーは床に膝をつき、女性スタッフと目を合わせた。
「もう大丈夫。偉かったね、声をあげられて」
女性スタッフは、黙ったまま。涙で潤んだつぶらな瞳を伏せ、唇を噛みしめる。
彼女は震えていた。
無理もない。体感した恐怖は計り知れない。
彼女のそばには、倒れた脚立と蛍光灯の箱があった。蛍光灯を換えようとしたところを襲われそうになった、とケアマネージャーは推測した。
「ナ-スステーションに戻ろう? 今のことは報告した方が良いわ」
ケアマネージャーがなるべく優しく声かけをするも、女性スタッフは首を横に振った。
「……このくらい、大丈夫です。お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
いや大丈夫じゃないわよ、とケアマネージャーは言いそうになったが、別の言葉を探す。
「看護師にだって、声をあげる権利はあるわ」
「……看護師でなく、クラークです」
女性スタッフは、のろのろと腰を上げた。ケアマネージャーもつられて立ち上がる。
意外にも背は高く、身長170㎝のケアマネージャーとはわずかな差しかない。スタイルが良い割に顔は今ひとつだが、つぶらな瞳と長いまつげにそそられる男もいるだろう。ケアマネージャーは、女性スタッフにしばし見とれてしまった。その間にも、彼女は脚立に上り、黙々と蛍光灯を交換する。
かしゃん、と脚立を畳んだ音でケアマネージャーは我に返った。
「やっぱり、駄目よ。セクハラされたこと、報告しなくちゃ」
女性スタッフは、自信なさそうに首を横に振る。ケアマネージャーは、女性スタッフの腕を掴んでナ-スステーションへ向かった。
――そうやって、うじうじしてるから股座狙われるのよ。
罵る言葉は飲み込んだ。
なぜかしら、ケアマネージャーは、この女性スタッフの味方でいたいと思ってしまった。
願わくは、この女性が日だまりの中を堂々と歩けんことを。
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