第1章 男の人は怖いのに

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 翌日、4月27日。土曜日。  前日の雨が嘘だったかのように晴れ、赤城(あかぎ)山の長い裾野が青空に映える。  紗衣は赤信号で自転車を止め、深く息を吸った。  青信号で一気にこぎ出し、職場へ急ぐ。  今日のお弁当は、明太子巻き卵、かぶのわさび醤油漬け、うどのごま和え、もち麦ご飯。  思いのほか料理に時間がかかってしまい、遅刻寸前であった。  昨日自宅に届いたアンクルパンツは忘れずに持った。ようやく、スカートの裾を気にせずに仕事ができる。 「鈴村さん、休まなくて平気なの?」 「平気です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」 「迷惑なんかじゃないよ。気にしないで」  女性スタッフとそんな会話を交わし、朝のミーティングに参加する。  スタッフの輪の外側に、ミッドナイトブルーのスクラブを着た望月涼太がいた。今日も甘いマスクなのに、凍てついた夜空に浮かぶ月みたいに冷たさをたたえている。  紗衣の胸の内で、熱さと冷たさが生じ、融和して小さな灯火となる。  紗衣は灯火の錯覚を振り払うために、彼から目をそらした。 「では、今日も一日、よろしくお願いします」  ミーティングが終了し、各自の持ち場に着く。  そのはずなのだが。 「ちょっといいですか」  耳に心地良い声に呼ばれたのに、紗衣は胸を殴られたように息が詰まった。  紗衣を呼んだのは、あの望月涼太だ。  こちらへ、と誘導されたのは、診察室だ。青木先生は、いない。ミーティングにはいたのに。 「青木先生は煙草を吸ってくるそうです」  青木先生が喫煙者だということが、紗衣には意外だった。そのおかげで、今ふたりきりで話すスペースができている。 「休まなくても平気なんですか」  平気です。  紗衣は答えようとした。しかし、喉元で言葉がつっかえてしまう。ミーティングの前に女性スタッフに同じことを訊かれても、すんなり答えられたのに。  押さえつけて消したはずの灯火は、ほのかに、しかし、しぶとく胸の内に在る。  とてもとても、目を合わせるなんてできない。  でも、男の人は怖いのに、この彼の近くにいても身がすくむような怖さはない。それに気づいたら、咽喉が楽になった。 「平気です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」  言えた。胸の内の灯火が、大きくなる。 「何か、お礼がしたいのですが」  言えた。  彼の返事は、「かしこまりました」だった。  その後すぐに青木先生が戻ってきてしまい、紗衣も受付にスタンバイする。  胸の内の灯火は、ともったまま。  土曜日は、ふわふわ。  忙しいのに、つらさを感じずに、飛ぶように時間が過ぎる。  ワンピースよりもアンクルパンツの方が集中できた。  今日は4月の割に気温が高いから、袖口や襟元から冷たさを感じなかったことも一因だ。  それもあり、紗衣は朝の会話をすっかり忘れていた。  夕闇に包まれて、耳に心地良い声を聞くまでは。 「ちょっといいですか」  自転車に乗ろうとした紗衣を、あの声が呼び止める。  スタッフ一同18時に退勤し、紗衣も帰宅しようとしたときだった。  月初よりも日が延びたとはいえ、外灯がなければ暗い駐輪スペース。  しかし、紗衣は相手がわかった。  間違っても、間違えない。  先輩なのだから、望月さん、と呼ばなくてはならない。それなのに、一度は下の名前で呼びたいと欲が出てしまう。その欲は、喉元で飲み込んだ。  七分袖のカットソーに、風が忍び込む。 「今朝仰っていた“お礼”ですが」  アスファルト上の砂が鳴き、先程よりも近くに彼の声を認知できた。 「このお店に行きませんか」  手をかざせば触れられる距離と高さで、液晶の光が生じた。光源はスマートフォンの画面だ。  名刺を渡されるように見せられたスマートフォンの画面には、飲食店の情報が表示される。  紗衣は目を疑い、反射的に顔を上げた。 「駄目です!」  しかし、目を合わせられずに伏せてしまう。  行動範囲の狭い紗衣でさえ知っている、イタリアンレストランだ。行ったことはないが、フリーペーパーで何度も目にした。  素敵なお店だというイメージがある。  でも、無理。 「私でなくて、素敵な人と一緒に行って下さい」  容姿も能力もある彼は、何の取り柄もない紗衣ではなく、女子力の高い素敵な女性と行くべきだ。そういうつもりで紗衣は言った。  彼みたいにレベルの高い人と、自分は釣り合わない。  紗衣は、画面が暗転したスマートフォンを彼に返却した。  スマートフォンを受け取っても、彼は一歩も動かない。 「あなたは素敵な人です」  光の頼りない夕闇の中で、彼が手を伸ばしたように、紗衣には見えた。  それは気のせいではなかった。  (ぬく)い指先が、紗衣の頬に触れる。 「あなたと、もっと話がしたい」  頬に触れる指先がわずかに動き、紗衣の心臓が大きく脈打った。 「駄目ですか?」  耳に心地良い声が、わずかに震えた。  紗衣は、無駄に大きな胸の(あわい)に熱さと冷たさを錯覚した。それは、一瞬だけ。すぐに、灯火のようなほのかな温かさに変じる。 「申し訳ありません」  紗衣は唾液を飲み込み、意識して再び口を開く。 「心を寄せさせて頂いています」  自分の心は、隠しておくつもりだった。しかし、もう隠せそうにない。 「望月涼太さんことが、好きです」  飴をなめているわけではないのに、口の中が甘く感じた。  目は伏せたままだが、一気に喋ってしまう。  ご迷惑だとは重々承知しております。  しかし、ずっと黙っていることができませんでした。  私は、あなたが思って下さるような素敵な人ではありません。  男の人が怖くて、円滑なコミュニケーションを取ることができません。  見ての通り、醜い容姿です。  仕事もできません。  迷惑をかけてばかりです。  自動車の運転免許も持っていません。  あなたと釣り合うような人間ではありません。  お誘いは本当に嬉しいです。  しかし、私はあなたにふさわしくありません。  気持ちは押し殺して、仕事に集中します。  本当に申し訳ありません。  堰を切るように、気持ちが言葉になってあふれ出す。  それを止めたのは、紗衣の唇をなぞる、彼の指先だ。  紗衣は危うく、彼の指を舐めてしまうところだった。 「鈴村紗衣さん」  氏名で呼ばれ、驚く間に、指先で(あご)を上げさせられた。 「あなたは、自分に厳しいですね」  心地良い声が、まっすぐ自分に向けられる。 「でも今日は、自分を甘やかしませんか?」  辺りが暗いのが幸いだった。彼と至近距離で見つめ合っているのだろうけど、目を合わせている実感が湧かないから。  彼はどんな表情をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。  紗衣の大きな胸は、灯火のような熱を持ったままだった。
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