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田舎あるある、その1。
天体が綺麗に見える。
理由は、明るい場所が少ないことと、建物が低いこと。
イタリアンレストラン“mese”の駐車場から見える月は、満月でないのに、満月のような輝きをたたえている。
紗衣の胸に灯火をつけた、彼のように、静かに、美しく、心地良い輝き。
……という現実逃避をしなければ、冷静でいられない。
紗衣は涼太に促されるまま、彼の車の助手席に乗ってしまった。
そのまま、会話もなく“mese”に到着。
紗衣が車を下りようとすると、彼がすぐに運転席から下り、反対側にまわって助手席のドアを開けた。
手を差し伸べられ、紗衣は躊躇いながら応じてしまう。
「鈴村さん」
月明かりの下で、彼は紗衣に微笑みかける。
紗衣は一瞬だけ見とれ、1秒後には条件反射のように目を伏せてしまう。
そんな紗衣を、彼は「行きましょう」と促す。
手をつないだまま。しっかりではなく、ソフトに。壊れ物を扱うように。
私はそんな大切にされるものではない。紗衣は、息を吸って声を発した。
「あの」
闇夜にとけてしまいそうなかすかな声は、彼の耳に届いたようだ。彼は紗衣を見てくれる。
紗衣はやはり彼を直視できずに目を伏せた。
「やっぱり、悪いです」
「何がですか」
彼は、ぽんと言葉を返してしまう。それに対して、紗衣はもたついてしまう。
「奥様とか」
「俺は独身です」
彼は手をほどき、右手を見せ、間違ったと言いたげに左手も見せてくれた。指輪も指輪の跡もない。
「彼女さんとか」
「いませんよ」
「いないんですか?」
紗衣の声帯は突然、裏返った声を発した。整った容姿と真面目な仕事ぶりの彼だから、当然プライベートも充実しているとばかり思っていた。
「鈴村さんが引け目を感じることはありません」
彼の声は耳に心地良いが、心臓に悪い。
「俺からも告白したいので、待って頂けますか」
少女漫画のような台詞が、紗衣に向けられる。
嬉しい。でも、恥ずかしい。自分自身が痛々しい。
紗衣は抹消の血液まで沸騰する気がして、肺静脈に流れているのは動脈血だったっけ、という現実逃避をしなければ冷静でいられなかった。
告白したいと彼は言ったが、どういう意味なのだろうか。
言葉通りに解釈して良いのか、行間を読むべきか。
「コースメニューで、パスタは“蛤と菜の花のスープパスタ”と“アラビアータ”。“熟成肉のローストビ-フ”をひとつだけ“国産ビーフハンバーグ”に変更。単品で、赤ワインのボトルと、ドルチェにパンナコッタをお願いします」
紗衣がうじうじしている間に、彼は1番高価なコ-スメニュ-を注文してしまった。ボトルワインとドルチェも。
「やっぱり、悪いです」
「俺が支払いますから、気にしないで下さい」
さらりと言葉を返され、紗衣はまた、まごついてしまう。
「それでは、私がお礼することになりません。私が支払います」
店内のテーブルは全て埋まっており、案外会話は目立たない。彼と紗衣のテーブルはフロアの角にあり、椅子は対面ではなく90°の角度になるように設置されていた。そのお蔭で、紗衣は視線を気にせずにいられる。
そのはずなのだが、なぜか緊張してしまう。
「俺の我が儘につき合って頂けるだけで、充分なお礼です」
彼は酒が入る前から、酔ったようなことを言う。普段は寡黙に看護業務をこなす人だということを、紗衣は忘れそうになっていた。
思い返せば、ふたりきりのタイミングは2度あった。
初めは、始業前にパンジーのプランターの前で。2度目は、相談室で。
口数は少ないが、紗衣が勘違いする程度に甘い言動をしてくれる。
本日の終業直後も3度目にカウントするならば、口説きまがいの文句で夕食に誘い、卑屈になる紗衣をなぐさめるかのように頬に触れた。頬だけでなく、唇にも、指先で。
初対面では冷たさをたたえた人だと思っていたが、手は温かかった。
先程のことを思い返していたら、恥ずかしさも思い出してしまい、紗衣はなかなか顔を上げられなかった。
赤ワインで乾杯し、料理を楽しむはずだった。
酒が入っても、紗衣は緊張状態が抜けない。料理の味がわからない。彼と上手く話せない。
彼は、紗衣より2歳年上で、今年で27歳になる。
実家は高知県馬路村。
小学校から高校、社会人チ-ムで数年間、サッカーをやっていた。今はやっていない。
1年前までは高崎市内の白鷺病院に勤めていた。
そんなことを、彼は紗衣に話してくれた。
聞くばかりでは悪いと思い、紗衣もつっかえながら話す。
実家は岩手県花巻市。東京の女子大に進学し、4年間寮生活をしていた。群馬に来たのは、就職がきっかけ。昨年末まで、高崎市内の穂高病院でクラ-クとして勤めていた。
でも、核心的なことは話せない。きっと、嫌われてしまうから。
たまに紗衣が顔を上げると、彼は表情を綻ばせる。紗衣もつられて笑み、慌てて視線を逸らした。
コースメニューのドルチェであったティラミスも、追加で注文したパンナコッタも、食後のコーヒーでは消せないくらい甘かった。
夜遅くになっても、夜空に浮かぶ月は白く輝く。
そんな感傷に浸る前に、紗衣は駐車場で謝罪した。
「支払って頂いて、本当に申し訳ありません」
深々と、頭を下げる。
ぎこちない会話しかできなかったが、それでも以前より話しやすくなった。
「あの、お帰りは大丈夫ですか?」
紗衣が訊ねると、彼は「大丈夫です」と答える。
「先程、代行を頼みました。来るまで20分かかるそうです」
彼は夜空を仰ぎ、また紗衣に微笑みかける。
「鈴村さんは、どうしますか。タクシーを呼びましょうか」
「いえ……自分でできますから」
彼の笑顔はナチュラルなのに、何度か目の当たりにしても、紗衣の心臓はざわついてしまう。肺静脈には動脈血が流れているんだっけ。
「すみません。上手に話せなくて、会話を盛り上げるのが苦手なんです。でも」
紗衣は唾を飲み込み、長身の彼を見上げる。
好きな気持ちは変わりません。
そう伝えようとしたのだが。
靴の先がぶつかり、目の前が翳る。
紗衣は息を呑んだ。
温かい手のひらが紗衣の頬に触れる。両手で、包み込むように。
「あなたは素敵な人です。俺は、あなたが可愛くて仕方ありません」
一瞬、わずかに、彼の指先が震えた。
「ごめんなさい。俺は普通じゃないんです。俺は」
ペットしか愛せないんです。
確かに、紗衣にはそう聞こえた。
「飼いたいか、飼いたくないか、でしか人を見ることができません」
黒い瞳が紗衣を見つめる。
仕事中の真表情とも、先程までの綻ぶような微笑みとも異なる、思い詰めた表情だった。
「鈴村さんは、優しい性格で、几帳面で、女性としても素敵な人だと思います。それなのに、可愛くて仕方ありません」
大きな手のひらに、頬を撫でられる。
「俺は、あなたを愛したい。いけないことだとわかっています。それでも」
彼は目をそらさない。唇を噛みしめ、眉根を寄せる。
「あなたを飼いたくて仕方ない。そばに置いて愛したいです」
まばたきをしない瞳から、涙がこぼれた。
「これが、俺の告白です」
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