第1章 男の人は怖いのに

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 ご飯の炊ける匂いがする。  子どもの頃、休日の朝にカーテンの隙間から差し込む光とご飯の炊ける匂いを感じるのが、紗衣の楽しみだった。  子どもの頃に戻ったみたいに、紗衣は頬を緩めて目を開けた。  朝の光が部屋いっぱいにあふれている。  しかし、知らない部屋だ。  どこかのお宅のリビングで、紗衣は毛布をかけて横になっていた。  紗衣が起き上がると、近くに来て膝をつく人がいる。  紗衣の無駄に大きな胸が、小さく跳ねた。七分袖のチュニックも、ワイドパンツも乱れていない。 「おはよう、紗衣」  甘いマスクの男性が、紗衣に微笑みかける。 「寝起きの顔も可愛いね」  頬をくしゅくしゅと撫でられ、紗衣はくすぐったさに顔をそむけた。すると、ぎゅっと抱きしめられる。 「ちゃんと眠れた?」  呼気が、耳朶をくすぐる。心地良い声が、鼓膜をくすぐる。  眠れました、と紗衣が答えると、彼は抱擁を解いて視線を合わせてくる。聞こえないふりをするように、わざとらしく首を傾げて。  紗衣は、昨夜言われたように言い直す。 「ちゃんと眠れた……よ。……(りょう)ちゃん」  望月涼太だから、“涼ちゃん”とでも呼んで。紗衣の敬語も好きだけど、気を遣わないで話してほしいな。  紗衣が寝落ちする寸前、彼にお願いされた。 「あの、お手洗いお借りしてもいい……?」  敬語になりそうだったのをすんでのところで(こら)え、トイレに()もる。  昨夜の出来事が徐々に(よみがえ)る。  頬も指先も血液が沸騰したように熱くなる。  どうしよう。心臓がもたない。      ◇   ◆   ◇ 「逃げて下さい。警察に通報して下さい。本当に、あなたが可愛くて仕方ない」  紗衣の頬に触れた手が、離れた。  紗衣は息を吸って、彼に問う。 「動物を飼ったことがありますか?」 「あります。実家で、雑種犬を。夏には、カブトムシやクワガタを」  普通の答えだ。続けて、訊ねる。とんでもないことを訊ねるのだと紗衣自身も気づいている。 「人は?」 「ありません」 「飼いたいと思ったことは」 「あります」  彼は静かに言い切った。きっぱりではなく、歯切れが悪いのでもなく、感情を押し殺したように。  怖い人だと思わなくてはならないのかもしれない。  家出した若い子が悪意を持った大人に拾われて酷いことをされる、という事件もある。  しかし紗衣には、彼がそういう人だとは思えなかった。彼は自分の奇癖を忌み嫌い、(あらが)いたいのに抗えず苦しんでいる印象を受けた。  紗衣は、自分でも気づかないうちに、手を伸ばして彼の頬に触れた。涙を指で(ぬぐ)うと、彼は目を(しばたた)かせた。 「やめて下さい。本当に、あなたをペットにしたくなるんです。あなたの自尊心を傷つけてしまうかもしれません」  話し声が近づいてくる。他のお客様が駐車場にいるのだ。  それなのに、彼は紗衣を抱きしめる。 「こうにしたくなるんです」  片手は背中にまわし、もう片方の手は紗衣の頭を撫でる。 「良い子だね。可愛いね」  まるで、子どもか、犬か猫をあやすように。  紗衣は、また胸の中に灯火がともる気がした。それは酸素を取り込んで、どんどん大きくなり、心臓を圧迫する。  彼に気づかれたくない。壊れそうなくらい、どきどきしていることを。 「ごめんなさい。逃げて下さい」  ぎゅっと抱きしめながら、言葉では逃避を促す。  しかし、紗衣は逃げない。  心を寄せる人を、苦しんでいる人を、捨てて逃げるなど、できない。そういう優柔不断な性格だから、前職では苦労の挙げ句に退職の憂き目に遭ったのだが。 「逃げません」  紗衣は、彼の腕の中で答える。胸の火は大きく、鼓動も治まらない。 「こんなことをされて、嫌じゃないんですか」  耳に心地良い声が、震えている。  紗衣は、彼のシャツをわずかに握った。 「好きな人にこうしてもらえるの、嫌ではありません」  鼻をすする音が聞こえた。 「ありがとう……ごめんなさい」  彼の顔は見えない。泣いている、と紗衣は想像した。  時間の許す限り、ふたりは駐車場で抱き合った。      ◇   ◆   ◇  ざわつく心を抱えたまま、トイレを出てリビングに戻る。  ローテーブルには、ご飯と味噌汁が用意されていた。ランチョンマットかトレイはなく、直置きだ。 「腹痛? 二日酔い?」 「いえ、大丈夫……だよ」  胸が苦しいです、なんて言えず、紗衣はローテーブルの近くに腰を下ろした。  昨夜はあの後、代行で帰る彼についてきてしまい、彼のマンションに泊めてもらったのだ。  玄関に一歩入れば、また抱きしめられて、「紗衣、と呼んでいい?」と訊ねられた。  紗衣は、脳内の血液が沸騰するかと思った。ただ、頷いた。  その後、酔いがまわって、リビングで寝てしまったのだ。 「ふてぶてしく上がり込んでしまって、ごめんなさい」 「全然迷惑じゃないよ。ご飯、食べようか」  半熟の目玉焼きも出され、朝食となる。  彼は紗衣の正面ではなく、右側に腰を下ろした。数学の図形の問題でいう“隣り合う辺”みたいだった。  炊きたてご飯は、硬め。味噌汁の具は、カットわかめと絹豆腐。豆腐は手かお玉で崩されている。  目玉焼きには醤油をかけたいな。  紗衣はそう思ったが、半熟の目玉焼きをご飯に乗せて、調味料はかけずに食べる彼を目の当たりにしたら我がままは言えなかった。  彼は、左手で箸を使っている。左利きなのだ。紗衣は昨夜は緊張したせいか気づかなかった。昨夜は今も緊張している。  緊張はするが、嫌ではない。朝起きたらすでに朝食ができている、という状況は、何年ぶりだろうか。外食以外で誰かの料理を食べたのは、とても久しぶりだった。  シンプルだけど心も体も温まる食事が、嬉しかった。 「ごちそうさまでした……おいしかった」  紗衣が下膳しようとすると、「どうか、そのまま」と彼に止められてしまう。ローテーブルを拭こうとしても、断られてしまった。  紗衣はやることもなくなり、ぼうっと想像する。アパートに帰ったらやらなくてはならないことを。  まずは、風呂に入る。歯を磨く。それから、洗濯。掃除もする。新聞を読む。買い物に行く。職場に自転車を置いたままだから、取りに行かなくては。 「紗衣」  ローテーブルにマグカップが置かれ、彼が隣に膝をつく。 「昨日は、あなたの気持ちも考えずに泊めてしまって、ごめんなさい」  彼は頭を下げる。  紗衣は首を横に振った。 「謝るのは、私の方です。親しくもないのに、おうちに上がり込んで、勝手に眠ってしまって、朝ご飯までごちそうになって」 「俺は嬉しい」  彼は、紗衣の顔をのぞき込む。  紗衣は、彼に呼気をかけないように息を止める。 「やっぱり、紗衣が可愛い。紗衣にはそばにいてほしい」  でも、きっとそれは、交際したいという類の気持ちではない。 「……飼いたい、ですか?」  紗衣が訊ねると、彼は首肯した。 「飼いたい、です」  彼は一度目を伏せ、また紗衣を見る。 「あなたの生活もありますから、無理に同居させることはしません。必要以上に触りません。無理強いもさせません。だから」  大きな黒い瞳は、涙をたたえている。 「あなたをペットにしても、いいですか?」  コーヒーの香りが、紗衣の鼻をくすぐる。紗衣の好きな、ブラックコーヒーの香りだ。無糖の苦さがあるから、甘さに耐えられるはずなのに。今は、甘さに耐えられない。  紗衣は、彼の手に、自分の手を重ねた。  彼の手は、温かかった。それなのに、震えていた。
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