第1章 男の人は怖いのに

13/13
前へ
/60ページ
次へ
 ランチタイムの開始時間ぴったりに、その若者はやってきた。 「いらっしゃい」  青木春也は、いつものハスキーボイスで彼を迎える。 「空いてるよ。どうぞ」  彼は、春也に促されるままカウンター席に腰を下ろした。  鶏の照り焼きのセットを下さい、と彼は耳に優しい声で注文した。  まだ昼前だというのに、若い彼はテーブルに肘をついて頭を抱える。  春也が経営するこの店、“かぶらがわ”は、居酒屋だが土日限定でランチもしている。兄の我が儘で出前をさせられることもある。  今来た彼は、春也の兄、雅哉のクリニックに勤務する看護師だ。初めて来たのは、ちょうど1年前だった。  春也と違って容姿も声も美しい彼だが、店に来るときは決まって影を引きずるように落ち込んでいる。  春也は、むやみやたらに訊ねない。  話したことがあれば、彼の方から口を開くから。  彼の自宅は高崎市内の倉賀野(くらがの)であると聞いたことがある。山名八幡宮に近いこの店まで距離がある。それなのに、わざわざここまで来るとは、相当の理由があるはずだ。  音楽を流さない店内に、沈黙が訪れる。  鶏の照り焼きにポテトサラダのランチセットをテーブルに置くと、彼は顔を上げた。この美青年には許される翳りと気だるさは、見る者を引きつける。そのことに、彼は気づいていない。 「女の子を、飼ってしまいました」  彼は重そうに口を開いた。 「お花の世話をしている様子に惹かれました。お花とお喋りするみたいで、俺まで癒されてしまうんです」  店内に他のお客様はいない。  春也はカウンター越しに耳を傾ける。 「こんな俺のことを好きだと言ってくれました。俺はペットしか愛せないと暴露しても、逃げずに怖がらずにそばにいてくれました」  彼は一度言葉を切り、再び口を開く。 「俺がつくった朝食を、安心した顔で食べてくれました。もう、可愛くて可愛くて、仕方ありません」  水の入ったグラスの中で、氷が溶けて大きく動いた。 「ペットにしてもよいか、と訊ねたら、よろしくお願いします、と言われました」  彼は、手をこぶしにして、握りしめる。その手は震えている。 「俺は普通じゃないです。いけないことをしていると自覚しています。でも、もっともっと、彼女を愛したいんです。でも、自分勝手な男だと思われたかもしれません。体目当てで近づいたと思われたかもしれません。嫌われたかもしれません。先程、彼女をアパートまで送り届けましたが、ほとんど喋ってくれませんでした」  普段は口数の少ない彼が、珍しく(まく)し立てた。  春也は、彼に傾聴するつもりで訊ねる。 「きみは、その女の子にどうしたいの? 首輪をつけるとか?」 「そんなこと、できません」  彼はすぐに答える。 「一緒にいたいです。彼女の生活もありますから、無理に同居させることはしません。暇な日に家でのんびり過ごしたり、たまには出かけたり、良い子だね、可愛いね、と心の底から褒めたいです。家族になる子ですから、大切にしたいです」  春也はわずかに首を傾げた。  好きな女の子に可愛いさを感じ、一緒にいたいと思うことは、彼にとっては“飼いたい”とか“ペットにする”ということで、その子を大切にすることは、“ペットしか愛せない”ことなのか?  春也は以前からこの彼の生い立ちと悩みを聞き、はっきりわかった。彼の“ペットしか愛せない”は、思い込みだ。多感期に周囲から言われ続けて、刷り込むように思い込まされたのだ。  春也は思ったことを口に出さず、肯定も否定もしない。  お客様が数人、やってきた。  彼は口を閉ざし、箸を手にする。  春也はただ、彼を見守る。ペットしか愛せないと思い込んでいるだけなのではないかと、彼自身が自問するまで。  【「第1章 男の人は怖いのに」終】
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加