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第2章 彼は飼い主なのに
柔らかい葉が一斉に芽吹く。
目に優しい若葉が萌えるのは、初夏の限られた時期だけだ。
紗衣は自転車のペダルを踏み込み、肺を満たすように若葉風を吸い込んだ。
今日は、5月2日。世間は明日から、大型連休後半。青木クリニックも、カレンダー通り連休になる。
駐輪スペースに自転車を止めると、紗衣はいつものようにプランターのパンジーに水をやる。
「鈴村さん、おはよう。いつも、ありがとう」
スタッフに挨拶をされ、紗衣も「おはようございます」と返す。
じょうろをしまって、職員玄関に入ろうとすると、望月涼太と出くわした。
湯を浴びて熱いような、氷を落として冷たいような、奇妙な感覚が紗衣の胸部に生じる。
「お……おはようございます」
目を合わせられずに挨拶だけすると、彼も「おはようございます」と返してくれた。今日も相変わらず、耳に心地良い声だ。
熱くも冷たい感覚は、混ざり合って灯火のような微熱となる。
声帯は、涼ちゃん、と呼びたくてうずいている。しかし、呼ぶことはかなわず、紗衣は彼の大きな背中を見送るにとどまった。
脳裏をよぎったのは、この前の日曜日の記憶だ。
――あなたをペットにしても、いいですか?
泣きそうになりながら、震えながら、気持ちを打ち明けてくれた彼。
その申し出を紗衣が受け入れると、彼は弱々しく表情を綻ばせた。
その日の午前中に紗衣を帰らせてくれたが、それ以降は何も起こらない。
出勤しても、以前のように素っ気ない。物静かに看護業務をこなしている。
あのときの熱い感情が嘘であったかのように。
青木クリニックを受診する人は、様々な症状を抱えている。
アレルギー内科だが、内科も標榜しているので、感冒の症状の人もいる。蓄膿症など、耳鼻咽喉科で診るような症状もある。
5月になっても意外と多いのが、花粉症だ。ヒノキ花粉は、なかなかおさまらない。
スタッフがタイムカードを押せたのは、20時近くになっていた。
「皆、ゆっくり休んでね」
青木先生が先頭になったみたいに、スタッフは次々と自分の車に乗り、帰路に着く。
唯一の自転車通勤である紗衣は、ぽつんと残されてしまった。近くの外灯に照らされて、敷地に1台だけ普通自動車が止まっているのが見える。
自転車も運転免許も持っていない紗衣は、スタッフの車がなかなか覚えられない。しかし、その車は覚えてしまった。
前髪を揺らす風が、チュニックの襟や袖を通り抜ける。紗衣は、開いてもいない胸元をかき合わせた。
高望みしてはならない。早く帰ろう。
紗衣は自分に言い聞かせるが、意思は脆く崩れてしまった。
車から下りてきた彼が、駆け寄ってきたから。
「おつかれさまです」
爽やかな初夏の風に、彼の心地良い声が乗せられる。
「もう遅いですから、送ります」
紗衣は、首を横に振った。大丈夫です、と発した声は、自分でも聞き取れないほど掠れた。
自転車のハンドルを握ると、そっと手を重ねられる。
「ごめんなさい。送るのは、口実です」
温かい手は、ファンデーションが剥がれかけた紗衣の頬に移る。
「紗衣、会いたかった」
彼の指先がわずかに震える。
紗衣は息を呑む。大嫌いな小さな目を見開いてしまったら、すぐに目が熱くなって乾燥してしまう。
ぎゅっと目をつむった隙に、抱きしめられた。
「きっちり仕事をする鈴村さんでなはなく、可愛い紗衣に会いたかった」
耳に心地良い声に、紗衣は包まれる。
胸部が一気に熱くなり、指先にまで熱が伝わる。自分に嘘をつくことができない。
「私も、会いたかった……涼ちゃんに」
紗衣は自転車のハンドルから手を離し、彼のシャツをそっとつまんだ。それだけでは足りなくて、くしゅっと布地を握りしめた。
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