第2章 彼は飼い主なのに

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 今はサッカーをしていないという涼太だが、体力は健在だった。ママチャリを軽々と車に積んでくれる。  紗衣は助手席に促され、シートベルトを締めた。  彼も運転席に着き、シートベルトに手をかける。 「何か食べていこうか」  ジーンズのポケットからスマートフォンを出そうとする彼を見て、紗衣は中途半端に手を伸ばしてしまった。 「家、近いから、平気だよ」  送ってもらえるだけでも申し訳ないのに、また外食につれていってもらうわけにはゆかない。  紗衣は、そのつもりで断ろうとした。しかし、伸ばした手はやんわりと止められ、大きな黒い瞳で見つめられる。 「紗衣を(ねぎら)いたい」  車内のライトが自動消灯した。  駄目かな、と訊ねる声が、耳に心地良く、闇に溶けていく。 「では、この近くのお店にしませんか? “鞠菜(マリナ)”というお店なのですが」  職場とアパートの中間辺りにあるから、移動時間もガソリン代もかからないだろう、と紗衣は考えた。  彼は、そうしよう、と賛成してくれた。  手を離され、紗衣は安堵する。  見つめられたり触れられたりして嬉しく感じる自分を受け入れたくないから、解放されて安心する、自分の感性に安堵したのだ。 「お洒落なお店だね」  “鞠菜”の、のれんとパ-テ-ションで区切られたテーブルに着くと、彼はきょろきょろと辺りを見回した。  落ち着きのない彼が、紗衣には珍しかった。  紗衣も落ち着かない。彼が正面にいるから。この前のイタリアンレストラン“mese(メーゼ)”でも、彼のマンションでも、真正面ではなかった。  サーモンカルパッチョとマルゲリータピザを注文し、ソフトドリンクで乾杯した。 「よく来るの?」  彼に訊かれ、紗衣は「たまに」と答える。 「友人と、たまに」  彼は「友人」と繰り返す。  紗衣は、胸に氷を落とした錯覚を起こした。  目を合わせられずに答えたのが悪かったのかもしれない。  誤解を招く前に、頑張って顔を上げて補足する。 「素敵な“ぼくっ()”なんです。身だしなみに気を遣って、お化粧も綺麗で、優しくてお姉さんみたいな人。薫ちゃんと呼んでいて……」 「違う、違う。誤解していない」  彼は眉を寄せず、口元を綻ばせる。 「紗衣に友だちがいて、安心した」  彼は小皿にカルパッチョを取り分け、紗衣の前に置いた。  紗衣もピザを切って取り分けると、彼は「ありがとう」と微笑んだ。  それだけなのに、紗衣はまた目を合わせられなくなってしまった。  照れる自分を見られたくないから。  会話は決して多くはない。静かな飲食は、紗衣は苦痛ではない。彼はどうだろうか。  料理が完食に近づいた頃に、彼が訊ねる。 「隣に行ってもいい?」  紗衣は、無駄に大きな胸がはねた気がした。のれんがあるから、他のお客様には見えないと判断し、いいよ、と答える。  彼はなぜか、テーブルの下をくぐり、紗衣の隣に座った。  近い。膝がぶつかる。  紗衣は申し訳なくて間隔を開けようとしたが、流れるような動作で顔を上げさせられる。 「お顔を見せて」  両手で頬を包まれ、吐息がかかる至近距離で、じっと見つめられる。  若い女性なら憧れるような甘いマスクを目の当たりにし、紗衣は心臓と肺が圧迫されそうだ。 「瞳が黒くて綺麗。黒真珠みたいだ」  そんなことはない。  紗衣は否定しようとしたが、まじまじと観察されると言葉が出ない。しかし、嫌悪感はない。 「ベビーフェイスなんだね。可愛いなあ」  余韻を残す語尾と優しい声に、鼓膜がとろけそうだ。 「ねえ、紗衣。お花は好き?」  唐突に訊ねられ、紗衣は小さく首肯した。 「連休の間に、遊びに行こうよ。ボタニカルカフェとまではいかないけど、藤岡の道の駅に植物園の喫茶店の話を聞いたんだ。紗衣と一緒に行きたい」  一緒に行きたい。  その言葉が、内耳で何度も跳ね返る。 「私も、行きたい」  涼ちゃんと一緒に。  嬉しいけれど恥ずかしくて、小声になってしまった。  ちくり、と。胸が痛い。  彼は紗衣を可愛がってくれる。でも、それはペットとして。  彼の申し出は、まるでデ-トのようだ。  しかし、デートではない。紗衣は自分に言い聞かせる。
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