第2章 彼は飼い主なのに

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 紗衣の隣に移動するにあたり、彼はなぜかテーブルの下をくぐっていた。  その理由を考え、出した推測は、“退路を断たないようにするため”。  テーブルの一方は壁にくっついていた。その反対側は、のれんがあった。  彼が普通にテーブルをまわって紗衣の隣に座る場合、紗衣は壁側に押しやられ、身動きが取れなくなってしまう。  彼は無理矢理テーブルの下をくぐってでも、紗衣の退路を断たないようにしたのではないか。  何のために。  紗衣を過剰に褒め可愛がるくせに、いつでも逃げられるようにするなど、矛盾している。  紗衣をペットにしたことに対して、後ろめたさを感じているのだろうか。 「お紗衣ちゃん?」  名を呼ばれ、紗衣は我に返った。 「どうしたの? ぼーっとしてたよ」 「大丈夫。ごめんね、果歩ちゃん」  一緒にいてくれる友人に詫び、紗衣はナイフとフォークを持ち直した。  5月3日。大型連休後半に突入した日。  紗衣は、果歩に誘われて前橋市のショッピングモールに来ている。映画を鑑賞後、モ-ル内のレストランで遅めの昼食の途中だ。 「果歩ちゃん、ありがとう」  果歩は、きょとんとして、小首を傾げる。 「私なんかに声をかけてくれて」 「全然、大したことないよ。お紗衣ちゃんこそ、一緒に来てくれて、ありがとう」  果歩は席を立ち、ドリンクバーに向かう。花柄のワンピースが、本人の可愛さを際立たせている。  紗衣はコーデを考える余裕がなく、水色のブラウスとホワイトのロングスカートを合わせ、髪型はいつものようなお団子ヘアにしてしまった。 「お紗衣ちゃん、その後どう?」  ドリンクバーから戻ってきた果歩に尋ねられる。 「気になる人と話せた?」 「気になる人って」  果歩には話せていない。果歩だけではない。誰にも話していない。  彼、望月涼太とのこと。彼のペットになって、可愛がってもらっていること。 「気持ちは伝えた」  ここは正直に。 「おつき合いにはならないけど、一緒にいようということになりました」  果歩が眉をひそめた。  紗衣は慌てて、つけ加える。 「友人……ということで」 「なんだ、そうか」  果歩はすぐに安堵したようだ。  果歩ちゃん、ごめんなさい。  紗衣は心の中で謝罪した。 「明日、一緒に出かけるの」 「おー、いいじゃん。どこ行くの?」 「藤岡市の道の駅。果歩ちゃん、知ってる?」 「観覧車があるところだ!」  あるのか、観覧車。道の駅に。 「いいな、お紗衣ちゃん。観覧車デート」 「違うよ。植物園の中の喫茶店」 「花の展示をしてる場所のことかな。観覧車デートもしちゃいなよ」 「無理だよ!」  否定してから、彼を思い浮かべて頬が熱くなってしまった。  果歩なら簡単に会話が弾むのに、彼とはまともに言葉を交わすことができないのだ。 「果歩ちゃんは? 気になる人とはどうなったの?」 「私? 何もないよ!」  果歩は急に慌てる。恋する女性なんだな、と紗衣は思った。 「だって、あの人とは窓口で会うだけだよ。介護保険の申請とか、認定調査の書類とか、提出に来るだけだよ。とっ捕まえてナンパなんて、できないよ!」  果歩は元気に首を横に振るが、紗衣は、違うことが気になった。 「果歩ちゃんは、どこにお勤めなの?」  申請や書類の内容が、市町村役場の介護課みたいなのだ。 「言ってなかった? 市役所だよ」 「果歩ちゃん、公務員!?」  紗衣も一度は図書館司書に憧れて公務員試験を受けた。しかし試験に落ち、自分に公務員は向いていないと諦めて、今がある。 「大したことないよ。高卒で入職したんだもの」  お紗衣ちゃんが、うらやましい。  果歩は、そうこぼした。 「背が高くて、お洒落さんで、お料理が上手で、謙虚でしっかり者のお紗衣ちゃんが、うらやましい」  私なんか、と紗衣は言いそうになり、ぐっと(こら)える。  うらやましい、なんて言われたことが、今まであっただろうか。  自分に足りないものをうらやましいと思うのは、紗衣も同じだ。  紗衣は、果歩がうらやましい。  明るくて、美人で、気さくな優しい女性。こんな人こそ、好きな人と結ばれてほしい。
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