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「今日の夕方にクラス会があるから、メンタルを整えるために帰ります!」
よくわからない理由で、果歩は帰っていった。
ふたりきりになると、彼は紗衣の髪を指で梳いた。
「可愛い」
何度目か数え切れないほど聞いた言葉。それなのに、紗衣は高鳴る胸を抑えることができない。
顔を上げると、微笑む彼と目が合って、思わず目を伏せてしまった。
「驚いたけど、安心した」
彼は、紗衣の頭を優しく撫でる。
「紗衣には心を許せる友達がいて、安心した」
「怒っていない?」
「怒らないけど、妬いている」
彼は顔を近づける。紗衣は反射的に目をつむってしまい、一瞬だけ額に柔らかい感触を覚えた。
紗衣が驚いて目を開けると、彼は形の綺麗な唇を綻ばせた。
「そろそろ行こうか」
紗衣は彼を直視できず、頷く。すると、紗衣の視界に手が差し伸べられた。
紗衣は手をとり、そっと握った。彼も軽く握り返してくれる。
“花の交流館”という建物に入った瞬間、花の香りに鼻をくすぐられた。
蘭の香りかな、と紗衣は思った。何年も感じていなかった、心和む香りだ。
高い天井の窓ガラスから、光が降り注ぐ。
外の来客に比べ、ここは人がほとんどいない。外の喧騒から遮断された静謐な空間だ。
大きな樹木に守られるように配された草花は、空調のわずかな風を受けてゆったりと揺れる。
オアシスをモチーフにしたようなエリアには、滝がつくられ蓮の花が咲いていた。
まるで花弁がこぼれるように、ほろっと溜息が出る。
「綺麗だね」
彼の声に、紗衣は我に返った。
「うん、とても」
耳を澄ませば、鳥のさえずりが聞こえる。本物の鳥ではなく、館内のBGMだ。
「紗衣の、その顔が見たかった」
「その顔って」
「感動している表情」
「そんな顔、していたんだ」
では、彼は今、どんな表情をしているのだろうか。
先程額にキスされたせいで一層目を合わせづらいが、気合いを入れて目を合わんとする。しかし、それより早く、背後から抱きしめられた。
心臓が大きくはねる。肋骨を突き破ってしまうのではないかと錯覚するほど。
思わず肩をすくめてしまったせいで、無駄に大きな胸を無意味に寄せて上げてしまった。トップスの襟も寄り、視線を落とせば胸の谷間が見えてしまう。手を差し込む隙間もある。
紗衣は、唾液を飲み込んだ。
思い出したくない。
薬品の臭い。
蛍光灯の明滅する廊下。
後ろからまわされる、男性の太い腕。
抵抗すれば、壁に追いやられ、カーディガンに手をかけられる。
ストレートパンツ越しに大腿部に置かれた手の異様な熱。
カバースカートをたくし上げられる恐怖。
思い出したくない。
もう、1年経つのに。
鼻をすすると、花の香りに鼻をくすぐられた。
まばたきをすると、目頭が熱い。
彼は紗衣を背中から抱きしめたまま、わずかにみじろぐ。
紗衣は、彼の前腕に触れた。
「もう少しだけ、こうにさせて」
え、と意外そうな反応が、耳元から生じる。
「嫌じゃないのか」
心地良い声が、鼓膜を震わせる。
「涼ちゃんなら、平気」
本当は、平気ではない。平静ではいられない。過去を思い出してしまうから。我に返っても、心を寄せる彼と顔も体も密着しているという事実に直面せざるを得ないから。
「でも、こんなことを話すと嫌われるかもしれない」
隙を見せたくない。それなのに、彼には話しておきたい。矛盾している。
「前の職場を辞めた理由」
日の光が館内を明るく照らす。
「セクハラされたの。患者様から」
入職時から、臀部や胸部に触れられることが多々あった。
ナースセンターの責任者に報告しても、たかがクラークの我が儘、と小言を言われた。
そんなことよりも長い髪を切るかアップにしなさい、と指導された。
美容院に行くお金はなく切って失敗するのが怖かったから、ヘアアップを覚えた。
ヒップラインが強調されないように、自費でカバースカートを購入した。ボディラインが出ないように、カーディガンを羽織るようになった。
そんな紗衣を、周りは“勘違い意識高い系”と嘲笑した。
自衛しているつもりでも、セクハラは減らない。
後で知ったことだが、若い女性看護師もかなりセクハラ被害に遭っていたが、上層部に報告しても、もみ消されていたらしい。さらなる被害を恐れた看護師は「そういうのは鈴村にやってね」と言い回っていた。
紗衣が入職して1年以上が経った頃。紗衣は物陰に連れ込まれて乱暴されそうになる。そのとき助けてくれたのが、有坂薫だった。
薫は紗衣の話を聞き、励まし続けてくれた。
しかし、男性不信は拭えず、人事課から「改善できなければ、今後のことも考えてほしい」と指導されるほど仕事に支障が出た。
薫の後押しもあり、退職に踏み切ったのは、2月末。有給休暇を消化して、書類上は年度末退職の扱い。
新年度からは青木クリニックに雇用され、今に至る。
紗衣は一通り話し終え、唇を噛んだ。
話すべきではなかった。しかし、誰かに話したかった。黙したまま乗り越えられるほど、紗衣は強くない。
彼は、抱擁を解かない。
寄せられた頬はわずかに濡れていて、口の端に入ってしまった水滴は塩味が強かった。
「俺も自分のことを話してもいい?」
耳に優しい彼の声は、泣いた後の鼻声だった。
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