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第1章 男の人は怖いのに
桜前線はのんびりと、散歩するように上州にやってきた。
観音山公園も、少林山達磨寺も、まだ咲き始めだと昨夜のニュースで言われていた。
アパートから一歩出ると、朝の冷たい空気がブラウスの袖口に入り込んできた。
「あら、鈴村さん。おはよう。年度始めなのに、ゆっくりなのね」
駐輪場でアパートの住民に声をかけられたが、曖昧に頷いておいた。この人は一度話し始めるとなかなか解放してくれないのだ。
背中に「行ってらっしゃい」の声を受け、自転車を漕ぎ出す。
冷たい空気は、朝日を受けてゆっくりと、溶け出すように緩み始める。
今日は4月1日。鈴村紗衣にとって、群馬県で迎える3度目の春が来た。
それと同時に、再就職先の初出勤の日でもある。
就職活動の際に、“七五三”という言葉を知った。
中卒の7割、高卒の5割、大卒の3割の人が、3年以内に最初の就職先を辞めている、という意味だ。
東京の女子大を卒業した紗衣は、まさか自分がその3割に入ってしまうとは思いもしなかった。
3年どころか2年も勤続できなかった自分を採用してくれた新しい職場には感謝している。
群馬県高崎市の東側。アパートから自転車で15分。まだ新しさの残る小さなクリニックが、紗衣の新しい職場である。
“青木クリニック”の看板のある敷地に入り、建物の裏にまわると、綻び始めた桜の花が目に入った。
ここの桜ではない。近くの介護施設のものだ。
感傷に浸る間もなく、敷地に入ってきた自動車が止まった。
車から降りてきたのは、面接のときにお世話になった事務長の女性だ。名前は保坂育美といった。若そうだけど、多分、40歳を超えている。
女性も紗衣に気づき、にわかに驚いた表情を見せた。
「おはようございます、保坂事務長!」
紗衣は頭を下げる。
「本日から“青木クリニック”さんの医療事務でお世話になります、鈴村紗衣と申します! よろしくお願いします!」
声は上ずって、敬語も滅茶苦茶。誠意は込めたつもりだ。
頭を上げると、女性は微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします。鈴村さん」
職員玄関を教えるわね、と促された矢先に、近くを誰かが通った。
紗衣と同年代の男性だ。
男性はちらりと紗衣を見たが、会釈だけして先に行こうとする。
「望月くん」
保坂事務長が男性に声をかけると、男性は歩みを止めた。
「今日からうちの事務で働いてくれる、鈴村紗衣さん」
紗衣はすぐに言葉が出ず、お辞儀だけした。
これからお世話になるのに、挨拶もできない自分が恥ずかしい。
今年で25歳になるのに、まだ男性が怖いとか、言っていられないのに。
望月と呼ばれた男性は、会釈だけして職員玄関に行ってしまう。
「彼、人見知りなの。無視しているんじゃないから、悪く思わないであげて」
あ、はい。
紗衣は気の抜けた返事しかできず、保坂事務長に倣って職員玄関から建物に入った。
先程の彼の姿は、もうない。
近くを通ったとき、背が高い思った。
紗衣も身長は167㎝あるが、彼はあと15㎝は上だろう。
一瞬だけ見えた相貌は、いわゆる甘いマスク。メンズモデルみたいな人だった。
男の人は怖いのに。
紗衣の脳裏はしっかりと、あの彼を焼きつけていた。
あの彼には、紗衣がどういう風に見えていただろうか。
黒髪をシニョンにしてパンツスーツなんて、変だろうか。
自動車ではなく自転車通勤なんて、変だろうか。
リクルートバッグとシュ-ズケ-スを持ってきたのは、変だろうか。
変な新人が来たと思われないだろうか。
紗衣は無駄に大きな胸から不安があふれそうだった。
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