第1章 男の人は怖いのに

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 午前の受付時間は、9時から12時半まで。  スタッフの休憩時間は、基本的に13時から14時まで。  13時を少々まわり、最後のお客様が会計を終えた。 「鈴村さんも、一緒にお昼食べよう」  紗衣は声をかけられ、事務スペースの一角のテーブルに着かせてもらった。 「お弁当つくってくるんだ? 偉いね」  早速、弁当箱を覗き込まれた。 「独り暮らし?」 「はい。そうです」  隠すことではない。紗衣は正直に答える。 「実家、どこなの?」 「東北です」 「地震のとき、大変じゃなかった?」 「うちの辺りは平気でした」 「なんでまた、群馬なんかに?」  ずきっ、と胸が痛みを発した気がした。 「新卒で内定を頂いたのが、穂高(ほだか)病院だったので」  紗衣の実家は、岩手県の花巻市だ。  地元の高校を卒業し、東京の女子大に進学。公務員を目指して、高い受講料を支払って対策講座を受講したが、公務員試験に失敗した。日本文化科の児童文学専攻で、履歴書でアピールできる功績はなかった。  司書資格は取得見込だったが、司書の求人は皆無。医療事務と介護職員初任者研修は取得していた。  駄目もとで、病院の現場事務にあたる“クラ-ク”の求人に応募してみた。採用通知を受け取ったのは、3月の卒業式の前日だ。それからのアパート探しと引っ越しは慌ただしかった。 「穂高にいたんだ! あそこ、昔気質(むかしかたぎ)でしょう? うちは全然そんなんじゃないから、無礼講にやってよ」  ワインレッドのスクラブを着用した、いかにも“ママさん”に肩を軽く叩かれた。  紗衣は控えめに頷いておいた。無礼講なんて、とてもとても、紗衣にはできない。  紗衣は話を聞きながら弁当を食べ終え、保坂事務長からもらった勤務表を広げた。勤務はほぼ全員一緒なのだが、非常勤のスタッフもいる。週4日だったり、時短だったり、イレギュラーな勤務の人もいるのだ。  スタッフは10人に満たない小さな職場だが、圧倒的に女性が多い。男性は院長の青木先生と、看護師の望月涼太という人だけだ。  朝、駐車場で会った“望月くん”は、この望月涼太だ。  もちづきりょうた、と紗衣は口の中で言葉を転がした。満月の夜のように静かで冷たさを(たた)えた名だ、と紗衣は思った。  食後にスイ-ツなんか食べていないのに、口の中にほのかな甘さが広がる。  その間にも、周りの会話は進む。 「鈴村さんみたいに奥ゆかしいお嬢さんなら、男の子が放っておかないよね!」  ひとりが言い出し、「ね-」と周りが同調する。 「鈴村さん、彼氏いないの?」  いないです、と紗衣は答えた。 「もったいないよ! 若いうちに遊んでおいた方がいいよ!」  女性陣が盛り上がる中、モスグリーンの影がすっと横切った。  紗衣は息を呑んだ。モスグリーンのスクラブ、青木先生だ。 「おばやん、やめろよ。それ、セクハラだよ」 「なによ、おっさん」  そう言い返すのは、保坂事務長だ。青木先生も負けていない。 「おばやんばっかりで呆れられるよ?」 「どうせ私は47歳のおばやんですよ。今年の誕生日で干支が4週するんですからね、おっさん」 「はいはい、俺は38歳になるおっさんですよ」  “おばやん”呼ばわりされた女性陣は笑っているが、紗衣は笑えない。  保坂事務長は誕生日が来ると48歳なのか。美魔女だ。青木先生は、開業医にしては若かった。紗衣には、保坂事務長も青木先生も“おばやん”と“おっさん”に見えない。 「今週の土曜日、出前とるよ。皆、弁当は持ってこなくて大丈夫だからね」 「先生のおごりですか?」  ひとりが横柄に訊ねる。 「俺のおごりだよ。新人の歓迎会の代わりにね。歓迎会できそうになくて、ごめん」  いえ、歓迎して頂くような身分ではありません。  紗衣は口には出さず、控えめに首を横に振った。  出前の話はそこで終わった。  青木先生はコーヒーメーカーの前に立つ。 「“だめおコーヒー”飲む人いる?」  は-い、とほとんどの人が挙手した。 「鈴村さんは? 紅茶か緑茶がいいかな?」  青木先生に訊かれ、紗衣は固まってしまった。医師という神様ポジションの人に名指しされてしまった(おそ)れ多さと、男性への恐怖心で。 「鈴村さん?」  保坂事務長の声で、紗衣は我に返った。 「すみません、コーヒーがいいです」 「お砂糖とミルクは?」  また青木先生に訊かれる。  紗衣は一呼吸おいて「ブラックで」と答えた。  スタッフは誰も席を立たず、青木先生が自らコーヒーを淹れる。  手伝わなくては、と紗衣は思ったが、しゃしゃり出るわけにもゆかず、周囲を見回した。  皆から離れたところに、ミッドナイトブルーのスクラブを着用したあの彼がいた。椅子に腰かけ、長い脚を組み、目を閉じている。耳にはイヤホンをつけており、イヤホンはスマートフォンに接続されている。  なんとも無防備な彼は、あの望月涼太だ。  紗衣はブラックコーヒーの苦さで口腔を満たそうとしたが、味蕾が錯覚した甘さはなかなか消えてくれない。
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