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夜の開店時間直前に、その若者はやってきた。
「いらっしゃい」
青木春也は、いつものハスキーボイスで彼を迎える。
「空いてるよ。どうぞ」
彼は、春也に促されてもカウンター席に腰を下ろさない。
「昨夜は大変ご迷惑をおかけしました」
大きな体を小さく丸めるように頭を下げる。
春也と違って容姿も声も美しい彼は、店に来るときは影を引きずるように落ち込むことが多いが、今日は様子が違う。
春也は、むやみやたらに訊ねない。
話したことがあれば、彼の方から口を開くから。
「いい加減、けじめをつけてこようと思います」
彼は重そうに、しかし揺るがずに口を開いた。
「親や祖父母に会って、しっかりと話をしてきます。自分の気持ちを整理してきます。それが終わったら、気になる女の子に気持ちを伝えます」
春也はただ、彼を見守っていた。ペットしか愛せないと思い込んでいるだけなのではないかと、彼自身が自問するまで。しかし、もうその必要はなくなったようだ。
「行ってらっしゃい」
春也は、言葉で彼の背中を押す。
「遠いんだろう? 気をつけて」
彼は、顎を引いて深く頷いた。
この美青年に許される翳りと気だるさは、もう見られなかった。
若者が店を出たのと入れ違いに、軽やかな足取りで若い女の子がやってくる。
春也は目を疑った。
「いらっしゃい」
声音にも疑いの色が出てしまっただろうか。
若い女の子は、ためらいながら春也をまっすぐ見る。
「青木春也さん、ですよね? 私、この前の婚活イベントにいました。覚えていないと思いますが……」
「覚えてる! 覚えてる! そうか、あのときの」
思い出した。この前の婚活イベントにいた女性だ。24歳の管理栄養士。まだ婚活をするような年齢ではないが、両親が高齢で早めに婚活を始めた、と話していた。春也は10歳上だから、まさか覚えてもらっていたとは思わなかった。
「ひとりで来たんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です! ひとりで来る人も多いですから、どうぞ」
「でも、まだ時間じゃないですよね?」
「もうほとんど時間ですから。気にしないで」
ぽんぽんと言葉が弾み、春也は驚いた。こんな会話ができるのは、兄だけだと思っていたから。
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