第5章 ケージではなく、ミトンでもなく

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 9月も半ばになると、朝晩が涼しくなる。  高知県に上陸した台風が、四国を抜けて本州も通過した、とスマートフォンのニュースで知り、紗衣の無駄に大きな胸が、わずかにざわつく。  紗衣が勝手に距離を置いている彼は、高知県の実家に帰省しているのだ。予定通りであれば、すでに群馬に帰っていて、本日から出勤するはずなのだ。“本日から”も何も、今日は土曜日で、明日はもう休日である。  そして明日は、前職時代の先輩の結婚式。  もうひと頑張りだ、と紗衣は自分に喝を入れ、濃いめのホットコーヒーを一気に飲んだ。 「では、9月14日、土曜日のミーティングを始めます」  いつものように事務長の保坂育美の号令で、朝のミーティングが始まる。 「看護師の望月くんですが、昨日の飛行機が欠便した影響で、今日の夜に群馬に帰ってくるそうです。今日はお休みになります」  やっぱり、と頷くスタッフが、ちらほら見られた。  紗衣はわずかに目を動かしてミーティングの輪を見回す。最近は彼を意識しないように気をつけていたが、いないとわかったら何か足りない気がする。 「今日も忙しくなりますが、よろしくお願いします」  よろしくお願いします、と唱和し、業務が始まった。  午前中は慌ただしく過ぎ、いつの間にか昼になる。そんな土曜日の雰囲気に、紗衣はいつの間にか慣れていた。忙しいが、ここでの忙しさに慣れた。  玄関を施錠し、スタッフ全員で昼休みにする。 「鈴村さん、結婚式明日だっけ?」  スタッフに訊かれ、紗衣は一瞬耳を疑ってしまった。他の人が「それじゃあまるで、鈴村さんが結婚するみたいじゃん」と突っ込みを入れる。お呼ばれしている結婚式のことを訊きたかったようだ。  明日です、と紗衣が答えると、いいなー、と(うらや)ましがられる。 「若いんだから、楽しんできなよ」 「美味しいお料理食べてきなよ」 「良い人探してきなよ」  良い人。些細な言葉が、無駄に大きな胸にちくりと刺さる。 「馬鹿だな、“おばやん”は。良い人くらい、自分で決めさせろや」  ラズベリーピンクカラーのスクラブでばっちり決めた青木先生が、マグカップを片手に口を挟む。 「“おっさん”、珍しくおっさんらしくないね」  保坂事務長は軽口を叩き、マイカップを出して青木先生にコーヒーをせがむ。 「俺はまだ38歳だからな、“おばやん”」  青木先生はカップを受け取った。  保坂事務長は余裕の笑みを浮かべる。 「あら、48歳の“おばやん”で悪かったわね、“おっさん”」  この小さな職場の医療サイドのトップと、事務サイドのトップ。  このふたりだからこそ、この小さな職場は円滑にまわっている。  昼休みを終え、午後の診察準備に取りかかる。  紗衣は待合室を手早く掃除し、わずかに余った時間で備品の確認をする。  ペーパータオル、トイレットペーパー、ボックスティッシュ、消臭剤、ガーゼ、消毒用アルコール、蛍光灯……ひとつひとつ確認し、Lサイズのプラスチックグローブが少ないことに気づいた。 「Lサイズ、少ないのか。俺、しばらくMを使うよ」  いつの間にか、青木先生がひょっこり覗き込んでいた。紗衣は驚いて一瞬固まってしまう。 「ごめん、ごめん。驚かせてしまったね。注文すると、いつ入るの?」  備品の入荷日を訊かれ、紗衣は一呼吸おいて答える。 「今日発注すると、火曜日の午前中に届きます」 「土日を挟んでもそんなに早く着くんだ」 「ウェブ注文なので、土日でも受付けて頂けるんです」 「へえ。良い時代だね」  青木先生は、紗衣の頭を軽く撫でる。 「ごめん。鈴村さん、可愛いから。姪っ子がいたら、こんな風に可愛いんだろうな」  可愛い。姪っ子。  紗衣は、自分の嫌いな小さな目を見開く。  医師は神様。神様の恩恵を受けられるのは、看護師をはじめとする国家資格の持ち主だけ。資格を持たない職員は、人間ですらない。前職では、そういう暗黙の了解があった。  ここでは、皆が平等。紗衣もまた、その一員にしてもらえた。 「鈴村さん、男が苦手だろ?」  電子タバコの甘い香りと、嫌みのない笑顔に、紗衣は申し訳なく頷く。 「いやいや。俺は気にしていないよ。鈴村さん、きちんと俺と話してくれるから、しっかりしてると思っているよ」  すみません。軽い言葉は言えないが、紗衣は心の中で青木先生に謝る。 「無理に克服しなくてもいいと、俺は思うよ。鈴村さんが本当に懐きたい人に、心の底から愛情表現ができれば、それで良いんじゃないかな」  青木先生は、少なくなったLサイズのプラスチックグローブの箱を手にし、軽く振ってから、元の場所に戻す。隣のMサイズの箱から数枚のグローブを出してスクラブのポケットに入れた。 「鈴村さん、頑張っているよね。いつもありがとう」  ぽん、と肩を叩くのではなく、わずかに置く程度。その静かな動作が、紗衣には安心できた。  紗衣はデスクに向かい、パソコンのロックを解除する。インターネットに接続し、通販サイトにアクセスした。  プラスチックグローブ、Lサイズ。  ウェブ上の商品を見て、ふと思い出す。  看護師の彼は、Lサイズしか入らない。実は、紗衣もLサイズしか入らない。  手の震えが止まらない彼に、紗衣は「手当て」と言って手を握ったことがあった。  ただそれだけのこと。  ただそれだけのことなのに、午後の業務の間、脳はその記憶をひたすら再生し続けた。  今日は18時半になっても、待合室が混んでいる。 「鈴村さん、今日は上がって」  保坂事務長に、こっそり耳打ちされた。 「明日、早いんじゃないの? 後は私がやっておくから鈴村さんは早く帰って休んで」  一緒に業務する事務の先輩も、保坂事務長に同意するように頷く。  ひとりだけ退勤するのは申し訳ない。受付を離れられないでいると、保坂事務長は、大丈夫、と微笑んだ。 「鈴村さん、いつもありがとう。後は任せて」  紗衣はお言葉に甘えて退勤した。  すっかり秋の空気になった夜の高崎を、自転車で駆ける。
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