第5章 ケージではなく、ミトンでもなく

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 紗衣は自然に目が覚め、カーテンを開けた。  清々しい、秋晴れの朝だった。すでに洗濯物が干されている。  疑問に思っていると、肩を叩かれた。振り向けば、すっかり大人になった(わたる)がいる。 「おはよう、航。もう洗濯してくれたんだ。ありがとう」  発達障害のある航は、パニックを起こしやすく、コミュニケーションが上手くゆかない。しかし、心根の優しい男性だ。穏やかなときは、秋晴れの空のように、曇りのない笑顔を見せてくれる。  紗衣は手早く朝食をつくり、航と一緒に食事にする。 「私、先輩の結婚式に行ってくるからね。二次会もあるから、帰ってくるのは夜になっちゃうかもしれない。昨日の残りの、鶏の照り焼きでも温めて食べてて」  航は大きく頷いた。早く出かけるようで、冷蔵庫の鶏の照り焼きを確認してから玄関で靴を履く。紗衣が前日から用意していたピンクベージュのパンプスを物珍しそうに見つめ、子どものように無邪気に笑う。 「ねえ、航」  紗衣は航に歩み寄り、訊ねる。 「私ね、好きな人がいるの。好きな気持ちが強過ぎて、今はセーブしている。本当はもっとお近づきになりたい。でも、迷っているの。私は幸せになってもいいのかな? 航は独りぼっちになっちゃうよ?」  航は、きょとんとして、首を傾げる。しかし、その首を横に振った。曇りのない笑顔で、利き手の親指を立てる。そして、軽やかに玄関を出て、秋晴れの町に出ていった。  紗衣だって気づいている。これは夢だと。航は大人になれなかった。航はもう、この世にはいないのだ。      ◇   ◆   ◇  紗衣は自然に目が覚め、カーテンを開けた。  清々しい、秋晴れの空だった。昨夜のうちに干しておいた洗濯物が、微風を受けている。  紗衣はパジャマ姿のまま掃除をして、朝食を摂る。ミニトマトと、夕食の残りだった鶏の照り焼き。食後にブラックコーヒーを飲みながら、ラジオを聴く。台風は日本海を抜け、大陸に進んだようだ。  歯を磨き、洗面をして、ボルドーカラーのワンピースに袖を通す。いつもより丁寧に化粧をして、パールビーズのネックレスをつける。髪は下ろしたまま。美容院でヘアメイクを予約してある。  持ち物を確認し、ピンクベージュのパンプスを履き、紗衣はアパートを出た。 「お紗衣ちゃん、おはよう」  アパートの駐車場に、果歩が待っていた。 「果歩ちゃん、おはよう。今日は、よろしくお願いします。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」  今日の送迎を果歩にお願いしている。果歩は自慢そうに笑顔を見せる。 「今日の私は、お紗衣ちゃんの運転手だからね。喜んで送り迎えさせて頂きますよ」  まずは、予約した美容院へ。歩いて行ける距離にあるが、今日は車で。 「若い子なんで、可愛くしてあげて下さい!」  紗衣のヘアメイクなのに、なぜか果歩がリクエストする。早くに来てくれた女性美容師は、任せて、と果歩のリクエスト通りに“可愛く”する。  長い黒髪はヘアアイロンで巻き、編み込みのハーフアップに。余った髪でサイドに小さなおだんごをつくられる。紗衣が持ってきたパールのUピンをちょこちょこ刺し、ラメを散らしてくれた。 「お紗衣ちゃん、素敵!」  紗衣より果歩が盛り上がっていた。  結婚式場の駐車場で車から下ろしてもらい、建物に入って受付をする。  本日はおめでとうございます、と受付の人にご祝儀を渡し、芳名帳に氏名と住所を書く。  挙式は10時から。あと30分近く余裕がある。  待合室でドリンクを頂きながら、周りを見回す。紗衣のようにひとりで来た人はいないようだ。どのグループも話に花を咲かせている。  紗衣は我が目を疑った。若い男女のグループの中に、彼の姿がある。  受付で頂いた席次表を見直すと、見知った名があった。  新郎御友人、望月涼太。  新婦にあたる紗衣の先輩は、年下の看護師と結婚したと言っていた。新郎にナースマンの知り合いでもおかしくはない。  席次表を畳んだ拍子に、肘に挟んでいたクラッチバッグが滑り落ちた。しかし、床にぶつかる前に、寸でのところで拾う手があった。  ありがとうございます、と紗衣はクラッチバッグを受け取ろうとして、小さな双眸を見開く。  無駄に大きな胸に氷が落ちたような、冷たい錯覚が起こる。その直後に、焼けるような熱さも。 「ただいま、紗衣」  紗衣が席次表に夢中になっている間に、彼に歩み寄られていたのだ。 「ネックレス、使ってくれたんだ」  抑えていたはずの心が、熱を持って膨らむ。  初めて見るスーツ姿が(まぶ)しくて直視できず、紗衣は目を伏せた。 「まだ、家出中です」  会いたかったのに、冷たい態度をとってしまう。冷たくしたら傷つけてしまうとわかっているのに。 「それは承知している。馬路から群馬に帰ってきたから、それを“ただいま”と言ったつもりだった」  紗衣だって、気づいている。彼がそのつもりで、ただいま、と言ったのだと。 「実家で、きちんと話してきた。謝罪されたよ。だからといって、染みついた認識は簡単に変えられない。でも、今の紗衣は、美しいと思う。とても素敵だ」  飾らず隠さない彼の言葉が、早くも紗衣の心の容量を超える。美しい。素敵。可愛い、ではない。 「そんなことより、涼ちゃん、お友達のところに戻ったら?」 「駄目だ。紗衣をひとりにはしておけない」 「もともとひとりで呼ばれていたの。一緒に来た人なんて、いない」  距離を置こうとして何歩か下がると、近くの人とぶつかってしまった。 「すみません。ごめんなさい」 「……お紗衣?」  耳に馴染みのある声と愛称に、紗衣は驚いた。 「薫ちゃん?」 「薫ちゃん!」  紗衣だけではない。涼太も声が裏返った。 「薫ちゃん、ホストかよ!」  ヒールを履いた紗衣より小柄になってしまった薫は、スーツに身を包み、前髪はラフにオールバックにしている。 「薫ちゃんもお呼ばれしていたの?」 「そうよ。新婦の子、幼馴染みなの。まさか、お紗衣も知り合いだったとは」 「前の職場の先輩だったの。涼ちゃんは、新郎さんのお友達なんだって」 「厳密には、新郎が看護学校時代の先輩だ」  ふうん、と薫は意味ありげに微笑み、おたまじゃくしのような目を細める。  涼太、と女性に呼ばれ、彼はグループに戻ってゆく。 「お紗衣、ひとり?」  薫に訊かれ、紗衣は頷いた。 「じゃあ、ぼく達と一緒にいましょうよ」  その言葉が、今の紗衣には救いだった。  ひとりでいるのは肩身が狭い。彼と一緒は気まずい。薫のグループにいさせてもらうのがちょうど良さそうだ。
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