第5章 ケージではなく、ミトンでもなく

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「涼太、お酒飲まなかったの?」  テンションの高そうな女性の声が、紗衣の耳にも入った。  披露宴の後の待合室。二次会も披露宴と同じ会場で行われるため、皆、会場の近くで待っていた。 「今日は飲まないよ。この前、酒で失敗しちゃったんだ」  涼太の沈んだ声に、紗衣は一抹の不安を覚える。しかし、駆け寄って割り込むなど、紗衣にはできない。今その役割に最適なのは、涼太のグループにいる人達なのだ。 「調子悪いんじゃない? 料理も全然食べてなかったし」  テンションの高そうな女性は、意外にも涼太の様子観察をしている。食い下がる女性に、平気だから、と断りを入れ、彼はグループから離れた。  紗衣は無意識のうちに彼の姿を目で追いそうになり、途中で諦めた。  廊下では、式場のスタッフが披露宴会場に飾られていた花をまとめて移動している。 「ぼく、ちょっと用事を済ませてくるわ」  薫は、ひらひらと手を振ってどこかに行ってしまう。  涼太が、大きな体をふらふらさせて移動する。気にして声をかける人に、平気、とやんわり断り、廊下に出ていった。  誰かに背中を押されたわけではない。  それなのに、紗衣は誰かに押されるように、彼を追いかけた。  閉まる寸前のエレベーターに滑り込み、安堵したのも(つか)の間、彼と同じエレベーターに乗ってしまったことに気づく。  彼が微笑んだ。頼りない、(はかない)い笑みだった。  玄関ロビーのソファーに腰を下ろし、彼は自分の手を開き手のひらを見せる。 「ナイフ、使えたんだよ」  紗衣は、あ、と間抜けな声を発してしまった。  PTSD。心的外傷後ストレス障害。  過去に腕をナイフで刺されたことによる後遺症で、彼はナイフの類を扱うことができない。  紗衣はそのことを、すっかり忘れていた。 「すごいね、おめでとう!」 「でも、魚料理のナイフだけだった」 「ううん、すごいよ。頑張ったんだね」  どんな言葉をかけても、薄っぺらく感じてしまうかもしれない。それでも、紗衣は彼を(ねぎら)いたかった。  ――紗衣を労いたい。  ペットになることを承諾した翌日、彼にそう言われた。  なぜ自分なんかを労ってくれるのだろう。そのときは、わからなかった。しかし、今は想像がつく。単純な話だ。言葉通り、労いたいのだ。 「なかなか上手に言えなくて、ごめんなさい。でも、涼ちゃんを労いたいの」  彼の手が、小さく震えていた。彼の手に、紗衣は自分の手を重ねる。そうせずにはいられなかった。  表情を伺うと、彼はゆっくりまばたきをした。黒く大きな双眸から、涙がこぼれる。滴を拭うこともせず、彼は紗衣を見つめる。 「……ごめん」  涙が口の端に入った。 「いい歳して、今の自分の気持ちがわからない。我慢していたわけではないのに、感情があふれ出してくる感じがするんだ」  彼は、手の甲で涙を拭う。 「もう少しだけ、ここにいる。紗衣は先に戻っていて」  タイミングというのは奇なるもので、紗衣のスマートフォンには薫から、彼のには学生時代の仲間から、「二次会の受付が始まった」という内容のメールが送られてきた。  お言葉に甘え、紗衣は先に会場に戻る。  二次会の受付を済ませると、ビンゴカードが配られた。  彼は、意外と早く会場に戻ってきた。何事もなかったかのように、仲間と談笑している。
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