第5章 ケージではなく、ミトンでもなく

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 無駄に大きな胸に氷が落ちたような、冷たい感覚が生じる。それはやがて燃えるような熱さ変わり、灯火のような穏やかな熱と化す。その熱は再度激しくなり、無理矢理押さえ込んでいた心の膜を、ほろりほろりと溶かす。  もう、何が何だか、わからない。  わからないが、背中を押されて動く。  背中を押すのは、きっと、周りから自信をもらった自分自身だ。  紗衣は会場を出て、廊下を早歩きで進む。  心はすでに走っている。パンプスを履き、クラッチバッグを持つ体が、心についてこない。  当てもなく廊下をうろつき、ようやく見つけた男性のスタッフに、紗衣は頭を下げる。 「お願いです、飾ったお花を下さい!」  披露宴であちこちに飾られていた大量の花が、もしかしたらまだ残っているかもしれない。  花は感染症を持ち込むかもしれないから、と禁止している病院があるが、ここは結婚式場だ。規則は病院より緩いことを願う。 「気持ちを伝えたい人がいるんです。この二次会が終わったら、顔を合わせて話す機会がなくなってしまうかもしれないんです。お花を買う時間がありません。差し出がましいようですが、お花を頂けませんか?」  普段から口下手で、言葉を頭の中で考えないと喋ることができない。しかし、今は頭が声帯に追いつかない。  男性スタッフは、少々お待ち下さい、と穏やかに一礼し、紗衣を置いてどこかに行ってしまう。  一呼吸置いて、紗衣は気づいた。  今の人は、男性だった。いや、視覚では男性だと認識していたけど。怖がる余裕がなかった。  男性スタッフは、すぐに戻ってきた。紙袋の形をした、半透明のナイロンの袋に、ひとかたまりの花を入れて。 「他にもお花のお持ち帰りをご希望されたかたがいらっしゃいまして、これしか差し上げることができないのですが」  男性スタッフに言われ、紗衣は首を横に振って花を受け取った。 「実は私も、土壇場で会場のお花をもらって、彼女に贈ったんです。その彼女は、今の妻です」  照れる表情を隠せない男性スタッフは、頑張って下さいね、と励ましてくれた。  紗衣は頷き、元来た道を探す。  ぞろぞろと人が出て行く会場を見つけ、そこが二次会の会場だったと気づいた。  遠目からでもわかる長身。甘いマスク。その彼に気づき、紗衣は走った。  パンプスだから、安定しない。それでも構わず走り、何もないところで転んだ。それでも立ち上がり、足を動かす。 「涼ちゃん!」  大声で彼を呼んでいた。  彼が紗衣に気づく。  紗衣はよろけた拍子に彼の腰にタックルし、ふたりして倒れる。  ほろり、ほろり。膜が溶けた心は、言葉にするのももどかしく、紗衣は力いっぱい彼に抱きつく。 「大好き! 大好き! 大好き!」  心があふれるのに、それを言葉にすることができない。せめて花を渡そうとしたら、花が手許にないことに気づいた。  体をよじると、彼に抱きすくめられる。 「行動範囲を制限することはしません。束縛もしません。鈴村紗衣というひとりの女性を愛したいです。だから」  少しだけ体を離され、顔を合わせられる。視線が絡み合う。それでも彼は、黒い瞳でまっすぐ紗衣を見つめる。 「あなたの彼氏になってもいいですか?」  思い詰めた表情ではなく、真表情でもなく、綻ぶように微笑む。 「これが俺の告白です」  紗衣は、全身の血液が沸騰したような熱を感じた。  どうしよう。心臓がもたない。  まるで自分が物語のヒロインになったと勘違いしてしまいそう。  答えは決まっている。しかし、渡そうと思っていた花が手許にない。転んだ拍子に落としたようだ。  花を頂いたとき、何と言われたか。そうだ、「頑張って下さいね」だ。ほんの一時だけ会った人から応援されたのだ。  とん、と背中を押されたように、紗衣は声帯が楽になった。 「よろしくお願いします」  手許に花はない。しかし、受け入れたい心はある。  彼は、わずかに目を見開いた。 「ありがとう」  まばたきをしない瞳から、涙がこぼれた。 「ちょっとぉ。新郎新婦より目立つんじゃないわよ」  不満そうな声を落とされ、ふたりは我に返った。花の入った大きな袋を携えた薫に、見下ろされている。披露宴の花を持ち帰りしたいという人は、薫だったようだ。 「はい、お紗衣。落とし物」  薫は、小さい袋とクラッチバッグを紗衣に渡してくれる。  紗衣は、彼に花を渡した。  彼はそれを受け取り、紗衣を立たせてくれる。目を合わせ、気恥ずかしく、紗衣は目をそらした。その肩を、抱きよせられた。  新郎新婦に感謝を告げ、会場を後にする。 「そうそう。お紗衣のビンゴカード、一列も揃わなかったわよ。リーチはいくつもあったのに。まあ、おふたりさんは1番のビンゴに巡り会えたから良いのかしら」  ビンゴのかなわなかったカードを一応受け取った紗衣は、クラッチバッグにカードをしまう。スマートフォンのランプが、メッセージの受信を告げていた。 「果歩ちゃん、もう来たんだ」  本日の送迎をしてくれる果歩は、近くのカフェにいるようだ。 「果歩が? いるの?」  薫の声に、わずかに焦りの色が浮かぶ。 「うん。果歩ちゃんにお迎えを頼んでいて、近くのカフェにいるって」
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