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エピローグ 雪の舞う町に
ああ、雪が降る雲だ。
紗衣はボルドーカラーのスヌードで口元を隠し、小さく息をこぼした。彼が編んでくれた作品だ。上質な毛糸を使っているようで、しっとりと温かい。
口元を隠したまま隣を見上げると、ダウンコートで防備した彼が、険しい表情で目の前を見つめている。それなのに、甘いマスクは崩れないのが不思議だ。
「涼ちゃん」
紗衣が声をかけると、彼は表情を溶かして微笑む。しかし、寒い空気が頬に突き刺さるため、その表情がすぐに凍ってしまう。
冬になるまで気づかなかったのだが、彼は寒さに弱い。雪を見ることも稀だという。
「何か温かいものを買ってくるね。ちょっと待ってて」
自動販売機かコンビニを探そうと、アスファルトをショートブーツで鳴らしたが、彼に腕を絡まれて止められる。
「紗衣とくっつきたい」
寒そうなのに、彼は手袋をしない。普段は車を運転するから、手袋をしない習慣なのだという。
そんな彼の素手を、紗衣はニットの手袋で包んだ。
12月22日。日曜日。
とあるカップルはテーマパークへ遊びに行ったという日。
昼過ぎの盛岡駅で新幹線から降りたカップルは、雪かきのなされたロータリーで腕を組み、ふたりだけの世界に浸る。
――紗衣、元気にやっていますか?
お父さんは、オストメイトデビューすることにしました。
父から紗衣にメールが来たのは、先週。
内容がわからず、彼にメールを見せると、彼は血相を変えた。
お父様に会わせてほしい、と。
ちょいちょい、とコートの裾を引っ張られる。
紗衣が振り返ると、すぐそこに、にこにこ笑う少年がいた。
「琢磨!」
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
弟の琢磨。また少し身長が伸びたようだ。
「琢磨、なぜここに?」
紗衣が訊ねても、琢磨は答えない。涼太のオフホワイトのジーンズを「白いパンツ」とからかい始める。
「涼ちゃん、白いパンツ履いてる!」
「間違ってはいないけど、誤解を招く言い方だな。悪い子は交番につき出してやろうか」
「涼ちゃん、やだ」
逃げる琢磨と追いかける涼太は、兄弟みたいであり、年の離れた友人のようでもある。
路面の雪に警戒するように、のろのろと車が進み、紗衣の前で止まった。車の窓ガラスが開き、運転手が紗衣に手を振る。
「紗衣、乗って。彼氏も」
「お母さん!」
自分達がここに来ることは事前に伝えていたが、新幹線の時間までは知らせていない。新幹線を降りたら、バスに乗るつもりだったのだ。
涼太は琢磨によって後部座席に押し込まれ、紗衣はその隣に促される。
琢磨が助手席に座り、車は出発した。
紗衣は運転席を覗き込む。カーナビの目的地は、父が入院している病院。紗衣の目的地と一緒だ。
「お母さん、よく時間がわかったね」
「紗衣のことだから、きっと自分の足で病院に行くと思ったの。新幹線の時間を調べてそれに合わせて来ちゃった」
恐れ入ります、と涼太が頭を下げた。
母は、ミラー越しに涼太を確認する。
「えっと、涼ちゃん、だっけ? わざわざ来てくれてありがとう」
「とんでもないです。お父様とお話させて頂きたかったので」
彼のその言葉に、母と琢磨が沸いた。
しかし紗衣は、そんな甘いものではないことを知っている。
車の窓ガラスに、雪が触れる。すぐに溶け、水滴と化す。
盛岡は花巻と近そうに見えるが、紗衣はあまり盛岡に行ったことがなかった。今、車から流れる景色を見ても、懐かしいとは思わない。
当時は、周りを眺める余裕などなかった。もしも今後、盛岡の町並みが記憶に植えつけられることがあったとしたら、最初の記憶は今日見た町並みだろう。
病院に着くと、母が病室を案内してくれた。
多床室の窓際に、父のベッドはあった。
夏前よりまた痩せた父は、タブレットで何か作業をしている。
母が声をかけ、父は顔を上げる。
父は目を見開いて驚き、久しぶりだな、と掠れた声で呟いた。
「お父様」
涼太が父の前に出る。
両膝を床につき、父を見上げる。
同じ病室にいた人達が、ざわついた。
「お願いします」
涼太の頭を下げる。
「オストメイトデビューを考え直して下さい」
にわかにざわついた病室が、急に静かになった。
「人工肛門の造設は、軽い気持ちでできるものではありません。それだけ病状が深刻だということはお察しします。しかし、考え直して下さい。苦労するのはお父様なんです。常にパウチを抱え、パウチの中身を処理して生活する覚悟はありますか? 奇異の目にさらされるかもしれません。オストメイト対応のトイレは大変少ないんです。それでも、ふざけてオストメイトデビューなんていますか?」
ぎくっ、と音がしそうなほど、父が驚きと戸惑いの色を顕わにする。
母が静かに口を開いた。
「人工肛門の造設? 聞いていないんだけど」
母には話していなかったらしい。
母は、主治医を探そうとナースステーションへ向かう。
琢磨は、父からお小遣いをもらって自動販売機に走る。
残された紗衣と涼太は、丸椅子を薦められて腰を下ろした。
「お父さん、調子はどう?」
質問をしてから、紗衣は後悔した。調子が良くないからオストメイト云々の話が出ているのだ。
しかし、父の答えはそれとは関係なかった。
「最悪だ。娘が彼氏を連れてくると、こんなにも気分が悪くなるとは」
涼太は黙って眉根を寄せる。
「たまに想像することがある。航に彼女がいて、紹介される想像を。航が選ぶ相手だから、きっと心根の優しい子なのだろう」
紗衣は、唾を飲み込んだ。父の口から航の名が出たのは、初めてだ。父は、後悔している。航の命を危険にさらして、最悪の結果を招いてしまったことを。
「退院したら、知らせる。そのときは、またふたりで来なさい。親戚を呼んで宴会をするから」
父は、窓の外を見やる。雪が降る雲に目を細め、微笑んだ。
もう帰っちゃうの、と名残惜しそうな琢磨に謝り、母に盛岡駅で降ろしてもらった。明日は仕事があるので、今日中に群馬に着きたいのだ。
「紗衣、元気でね。涼ちゃん、紗衣のことをよろしくお願いします」
「お姉ちゃん、涼ちゃん、またね!」
母と琢磨に見送られ、新幹線のホームに向かう。
空いていたベンチに腰を下ろすと、彼が肩を寄せてきた。寒い、とこぼした声が耳に心地良く、紗衣は安堵してしまう。しかし、父にとって最悪の事態を想像してしまい、言いようのない不安が大きな胸をよぎる。そんな紗衣の不安を汲み取るように、彼はそっと唇を重ねてくれた。冷たい唇と温かい吐息が絡み合い、唇に熱がともる。公衆の面前なのに、もっとこうしていたくなる。
あ、と彼は声をこぼした。
「こんなところを編み落としていた。失敗した」
紗衣の首元をおおうスヌードに目を落とし、指先で編み目に触れる。
「ここ?」
紗衣は手袋を外し、編み目を指で掬う。
「失敗じゃないよ」
編み目を指で掬ったまま、紗衣は彼の指を絡める。
ボルドーカラーの糸で愛する人を結い、ふたりは寄り添う。
「ねえ、紗衣」
彼は白い息をこぼし、耳に心地良い声で問う。
「俺は紗衣の全てを受け入れたい」
駄目かな。
周りの人には聞かれないよう、小声で、こっそりと。
紗衣は、緩む頬を自律できず、自然に任せて微笑んだ。
「ありがとう。嬉しい」
空の雪が、花のように舞う。雲の切れ間から、わずかに光が差した。
【「ケージではなく、ミトンでもなく」完】
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