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日が延びたとはいえ、18時45分はすでに暗い。
職場の近くの桜が満開であることを、駐車場に転がり始めた花弁で知った。
紗衣は自転車に乗って、友人と約束した店に向かった。
職場とアパートの中間くらいの距離で、住宅街の真ん中にこじんまりと佇むレストラン“鞠菜”。洋風の煉瓦の建物の内部は、アジアンテイストのインテリアでコーディネートされている。
テーブル席は、個室のように仕切られていて、通路から見えないように暖簾が下がっていた。
「お紗衣、久しぶり」
「薫ちゃん、遅れてごめん!」
久々に友人の顔を見て、紗衣は安堵した。
友人の名は、有坂薫。紗衣より7歳上の、姉のような存在だ。
ときに「目はおたまじゃくし、口は蛙、中身はミミックオクトパス」と容姿を自虐するが、独特のゆるい空気感が、紗衣には落ち着く。黒色よりワント-ンだけ焦げ茶色した髪は、襟足が長い。
一人称が“ぼく”の“ぼくっ娘”なのだが、紗衣もうらやむほど身だしなみに気を遣う。
「薫ちゃん、お仕事だったの?」
「ええ。休日の事務所当番」
「ケアマネさんなのに、大変だね」
やっぱり、という言葉は、紗衣は口に出さなかった。桜花みたいな薄紅色のポロシャツとクリ-ム色のパ-カ-は、仕事着みたいだったから。薫は、居宅支援事業所の介護支援専門員だが、制服のない職場だから、仕事着は襟のある服が主になる。ファンデーションで薄く化粧して、長さも太さもそこそこあるがすかすかの眉はアイブローで間を埋めている。
紗衣は仕事が終わると一気に緊張感が抜けて、化粧まで気が回らなくなるのに。
「お紗衣、何か頼めば?」
「うん……ありがとう」
紗衣はソフトドリンクを注文した。自転車で移動する紗衣は、飲酒できない。自動車を運転する薫が、アルコールを摂取しているところを、紗衣は見たことがない。今日もノンアルカクテルだという。
注文したアイスコーヒーが来ると、薫のノンアルカクテルと乾杯した。
「お紗衣は本当にブラックコーヒーが好きね」
「変かな」
「ううん。お紗衣は飲み方が可愛いから、そのギャップが良い」
「可愛いって……」
否定の言葉は、アイスコーヒーと一緒に飲み込んだ。胃まで苦くなる気がした。
私は可愛くない。
言葉を口に出してしまったら、褒めてくれた薫のことも否定してしまうから。
「お紗衣、またいじめられていない? ちゃんとご飯食べられている?」
「いじめられていないよ。ご飯も食べているよ」
薫は優しい。薫となら、紗衣は緊張せずに話すことができる。
「あのクリニックの先生、男でしょう? 大丈夫?」
「先生は平気。落ち着けば話せるよ」
本当は、青木先生も怖い。最初の就職先で覚えたことは尾を引くようで、医師が“神様”だという認識は抜けない。言い換えれば、青木先生は“神様”だから怖い。男性に対して萎縮してしまうけれど、その点に関しては、青木先生にはだいぶ慣れた。落ち着いて接し、ゆっくり話せば、コミュニケーションは取れる。“神様”は、“人間”以下の新人の紗衣にも分け隔てなく接してくれる。
「違う」
薫は、おたまじゃくしのような目を細め、アイライナーで整えた眉をひそめる。
「お紗衣の可愛さが、いつもと違う」
どういうこと、と訊ねる前に、紗衣が後で注文した生ハムのサラダが運ばれてきた。
生ハムは透き通るように綺麗で、カンテラのようなデザインの電灯に、生ハムをかざす紗衣。
薫は、寄せた眉根をゆるめた。
「お紗衣には、心を寄せるお相手がいらっしゃるのかしら」
文学的な言い回しは、日本文学科出身の紗衣だから通じる。
紗衣の手から、生ハムを絡めたフォ-クが落ちた。
「いないよ、そんな人」
紗衣はフォ-クを持ち直す。
薫は「あ、そう」とあっさり引き、「他にも食べたら?」とメニューを見せてくれた。
お洒落な料理が多いが、糖質も高そう。紗衣は、比較的ヘルシーなイメージの“そば粉のパンケーキ、豆腐とサーモンをサンドして”を注文した。
とはいえ、今日は炭水化物を摂り過ぎた。明日は軽めにしなくては。
そば粉のパンケーキと豆腐とサーモン、という組み合わせが以外にも合っていて、紗衣はぺろりと一皿平らげてしまった。
エアロバイクでダイエットするごとくママチャリをこいで帰宅したのは、22時近く。自転車でふらふらするには厳しい時間だった。
紗衣は玄関の鍵をかけ、家計簿をつけるべくバッグから財布を取り出す。
財布の隣には、缶コーヒーが入っていた。
忘れようとしていた感覚が、再びやってくる。
「お紗衣には、心を寄せるお相手がいらっしゃるのかしら」と薫に訊かれたとき、紗衣は否定した。そんな人、いない。いるわけがない。
それなのに、脳裏にあの彼の姿が浮かんだ。
熱くも冷たい感覚が胸部に生じる。耳に心地良い声が鼓膜に蘇る。
怖いのに、なぜか目で追ってしまう。
それはきっと、心を寄せる相手ではない。紗衣が一時的に迷走しているだけだ。
土曜日は、ふわふわしている。久々に友人と喋った高揚感か、夕食の余韻か。それ以外の要素は考えないように努める。
紗衣は、缶コーヒーを冷蔵庫にしまった。
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