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「マスター! もう一杯ください!」
「徹夜明けで出勤、明日も早朝からミーティング。今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃないかい?」
「飲まないと帰りませんし、眠りません! ……じゃないと、やってられません……」
泣き出したくなる感情を押し殺して、マスターが「最後の一杯だよ」と言いながら出してくれたカクテルを飲んでいく。
グラスから口を離すと、白髪のマスターはカウンター越しに不安そうな顔を浮かべ、娘を心配するような口調で言葉をかけてくれた。
「大切な人に忘れられることは確かにつらいさ。だけど、その結果としてヤケを起こすのはよくない。取り返しがつかなくなるからね……」
「分かってます。……はぁ、ちょっとトイレ借ります」
「足元、気を付けてね」
田舎を離れ、都心で暮らす様になってから通うこのBARのマスターは“都会のお父さん”と呼べるべき存在で、彼に諭すように宥められれば、ヤケ酒もここまでにしておくべきだろう。
帰る前にトイレに寄って、言われた通りマンションに戻ったら休む。心のモヤが晴れることはしばらくなさそうだが、今だけでも心を納得させなくちゃと思い、私は個室に入った。
「……なりたい自分、か」
ふいにトイレの鏡に写った自分の姿が目に入り、手洗い場越しに鏡を見つめる。
昔は鏡を見る度に落ち込み、自己否定の言葉が胸を埋め尽くし、自信の持てない自分という存在を見るのも嫌だった。
だけど優菜さんが“私”を見つけてくれたあの日からは、鏡の前に立っても胸を張ることが出来た。そこにはなりたかった自分がいて、自身の心も頑張って綺麗になった“私”という存在を受け入れてくれた。
……だけど、ヤケ酒を繰り返す日々を送った今の自分を前にすると、自嘲しか零れない。
「うわっ、肌すごく荒れてるな……」
ここ数日、メイク落としもスキンケアも中途半端だったせいか、肌は荒れに荒れていて、顎の辺りには大人ニキビまで出来ている。
かろうじてファンデーションで隠れてはいるが、きっと今以上に悪化すれば隠しきれるものじゃない。
だけど、そんな酷い状態の肌を見ても、これから何かをしようとする気力は起きなかった。
なりたい自分が鏡に写ってもどうでもいい。全ては昔に戻っただけ。綺麗になった姿を見てほしい人の中に、私という存在はもういないのだから……。
「あの人に見てもらえる、自分になりたかったな……」
記憶の中で微笑んでくれる、自分を変えてくれた大切な存在。
その人の心の中に自分はいないんだと改めて思うと、酷く胸が痛んで、押し殺してきた涙が溢れそうになった。
「――あれ? 使用中ですか?」
その涙を止めたのは、音を立ててドアを開け、ふい個室に入り込んできた男の存在だった。
鏡越しにその自分を見た瞬間、私は慌てて振り返った。
「ななな、なんですか?! なんで女子トイレに男の人が……!!」
「ん? よく分からないけど、このトイレ男女兼用だよ。あと、鍵空いてた」
「えっ!?」
そんな馬鹿な話があるもんか。……と思ったが、酔った自分の記憶は酷く曖昧なもので、思い返しても鍵をかけた記憶は呼び起こされず、名も知らない男性の言葉が真実に思えてくる。
「使うのなら、外で順番待ちしてるよ。――あぁ、急がなくても大丈夫だから、その辺は気にしないで」
「す、すみません……。お気遣い、ありがとうございます」
自身の醜態を晒しても尚、その場に居合わせた彼は特に気にした素振りも見せず、微笑んで受け流してくれる。謝罪に下げた頭を上げて改めて相手の顔を見てみれば、とても綺麗な人だった。
高身長で足が長く、身に纏っている服もシンプルながらに彼という存在に似合うモノクロコーデ。男性にしては珍しくトイレにカジュアルなトートバッグを持ってきた男性は、私の視線に気づくとニコリと微笑みながら首を傾け、赤いメッシュの入った前髪を揺らした。
その向けられた二度目の笑顔は、どこか懐かしさを感じるもので、不思議な感覚に疑問を抱きながらも、酔った頭で思い出そうとした時だ。
「そうだ。ここを出る前にコレ、渡しておくね」
「へ? あの、これは……」
言いながら彼がトートバックから取り出して手渡してくれたのは、未開封のボトル。書かれた文字を読めば、それはCMなどで見かける液体状の薬用スキンケア用品だった。
「そこのメーカー商品、俺のオススメなんだ。君の肌に合うと思うから、使って」
「え? でも、あの……」
「さっき鏡で荒れた肌見てたでしょ? 騙されたと思って、使ってみてよ。ね?」
「えっと、ですけど……」
トイレで出会った見ず知らずの男の人からもらったボトル。未開封でラベルはしっかりあるものの、これは使ってもいい物なのか。何かおかしな液体が混ざっているのではないか。
疑心暗鬼になりながら手に持った相手とボトルを交互に見比べ、
「――大丈夫。誰だって、なりたい自分になれるから」
聞き覚えのある言葉に動きが止まってしまい、その間に彼は片手を振って個室から出て行った。
残された私はただドアの先に消えた相手のことをいつまでも考え、
「使って、みようかな……?」
と、ボトルを丁寧に鞄の奥に仕舞い込んだのだった。
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