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僕は口下手だ。
自慢では無いが、親以外の人と喋ってどもらなかった事は無い。
女性は勿論、男性もダメだ。
挨拶すらろくに出来ないせいで、バイト先でもしょっちゅう叱られている。
僕は、今年大学1年生になる。
こんな自分を変えたいと思い、奮起して一人暮らしを始めたのは良いが、親との会話が無くなったせいで、食事以外で口を開く機会は最早無に等しい。
はぁ、魔法か何かで口が達者になればどれだけ良いことだろうか。
そんな僕が飽きもせずアラームの音と共に朝を迎え、身支度のために洗面台の鏡を前にすると、そこには驚くべきものが映っていた。
口が無くなっていたのだ。
僕の顔を構成するパーツの1つが、まるで元からそこには何も無かったかのように、ただ肌色が広がっている。
辛うじて青いヒゲが遺されていたので、兎にも角にも僕はシェーバーの電源を入れた。
▶▶▶
きっと神様か何かが僕の口を奪ったのだ。
ヒゲを剃り終え、ノロノロと服を着替える僕はそんな事を考えていた。
普通に考えて、朝起きたら自分の口が綺麗さっぱり無くなっていたなんて荒唐無稽な現実、受け入れようも無いのだが、正直今の僕にとって、それは重要な問題では無かった。
大事なのは、この口では今日のバイトに出られないという事だ。
それに、大学にも通えない。僕は良くても、周りの人が怖がってしまう事だろう。
欠勤が頭をよぎるが否。と首を振る。
1人暮らしにおいて、バイトの欠勤は生死に直結してくるのだ。
僕は意を決し、箱から取り出した1枚のマスクを装着する。
コレで今日は何とかしよう。そして、明日にでも病院に行こう。そうしよう
僕は勇んで家を出る。
全くもっていつも通りの朝だ。
ドアを開けると青い空が僕を出迎え、アパートの大家さんの朝の挨拶に飛び上がりながらも、会釈だけして逃げるようにその場を去る。
代わり映えのしない、僕の毎朝である。
▶▶▶
さて、もうすぐ閉店時間だ。
飲食店である僕の職場は、急ぎ足で閉店作業を始めていく。
僕は任された仕事をこなしながら、内心安堵していた。何とかなった、と
他のアルバイトや、社員さんたちは向こうで固まって何やら笑い合っているが、今日に限っては好都合だ。
いつもなら鬱陶しくも羨ましさを感じるこの時間も、何故だか少し嬉しく思える。
しかし、そんな僕の心の平穏は音を立てて崩れ去った。
甲高い、お客さんの会計を告げるベルの音で。
既にラストオーダーの時間も過ぎているが、稀にこうやって店が閉まるギリギリまで粘るお客さんもいる。
不運な事に今日がソレだ。
ツイていない、もしくは例の神様が僕に苦難を課しているのかもしれない。
向こうに居る従業員一同を見るが、向こうも同じ事を考えていたようでバッチリと目が合う。
僕は視線だけでもめいっぱい抵抗するが、多勢に無勢だった。
再度鳴らされたベルの音で決着は着き、僕は嫌々レジの前に立った。
お客さんは若くて綺麗な女性1人で、待たされた事に苛立っているのか、伝票を叩きつけるように僕に渡すと、早くしてよ。とぶっきらぼうに言った。
僕は頭を下げ、手早く会計を済ませる。
お釣りを渡し、もう一度頭を下げ心の中で、ありがとうございました。またのご来店お待ちしております、と言った。
だがしかし、顔を上げてもまだ女性客はレジ前に佇んでいた。
お釣りを財布にねじ込み、バッグに投げ入れると僕を睨めつけ、矢継ぎ早に意見という名の文句を長々垂れ始める。
どうやら長々レジ前で待たされた事に相当怒っていたらしく、僕に謝罪を求めてきた。
僕は誠心誠意を込めて頭を下げたが、女性客は全く納得せず、言葉での謝罪を求めてきた。
僕は何度も頭を下げたが、意図は伝わらない、女性客の機嫌はますます悪くなるばかりだ。
どうしよう、僕の頭はもうパニック寸前だった。
服を掴まれていて逃げようが無いし、助けを求めようにも他の従業員は遠くで雑談にふけるばかりで、こちらを見ようともしない。
僕は察した。そうか、僕はここで死ぬのだ。命という意味ではなく、1人のバイト人として、という意味で。
僕は全てを諦め、目を瞑った。女性客がそんな僕を見てまた怒鳴り出したが、もう僕にはどうしようも無いのだ。
呪うなら、僕から口を奪った神様を呪って下さいな……あっても、使えないだろうけど。
「そう怒らないで、キレイな顔に皺が入りるよ」
声がした。
遥か遠く、聞いていると気持ちがフワフワとする不思議な声だ。一体どこから?
「ほら、お姉さん。笑って?」
女性客は困惑している。
しかし、その表情に先程までのりの色は無かった。むしろ何処か嬉しそうな、そんな気配すら感じとれた。
女性客がぎこちなく微笑むと、何処からか聞こえてくる声は、
「うん、その方がずっと良いよ。とっても素敵だ」
なんて歯の浮くような事を言いだした。女性客は照れたように頬を染めると、そのまま店を後にしたのだった。
▶▶▶
結局、声の主の見当もつかないままその日のバイトは終わり、僕は首を捻りながらも帰路に就いた。
ふと背後から誰かが駆け寄ってくる気配がする。
振り返ると、そこに居たのは肩で息をする同期の女性だった。美人だ。
職場でもかなりの人気を誇る彼女は、帰り道が同じだという事もあり、時折こうやって一緒に帰っている。
と言っても何か会話があるわけでも無い。あるのは延々続く静寂と、たまに彼女が綴る鼻歌の音だけだ。
だがしかし、今日の彼女は一味違った。
どうやら僕と例の女性客との問答を1人見ていたらしく、その顛末について聞いてきたのだ。
だけども僕にはそれを答える術がない。
口が無い、とも僕は喋ってもないとも彼女には言えないのだから。
何も言わない僕の顔を彼女は輝く目でジッと見つめてきている。美人だ。
彼女に見つめられ、心苦しく感じた僕はスマホを取りだし、文字で伝えようとした。その時だった。
「なぁ、良かったら今度遊びに行かないか?」
また声がした。
喋り方が少し違うが、確かに先程の声だ
彼女は驚いたような顔をしていたが、次第にその表情は軽やかな笑みへと変わっていく。応えはイエスだった。
「そうか、良かった。また追って連絡するよ」
声はそう言った。
そしてそのまま、彼女は自分の家へと帰っていってしまったのだった。
▶▶▶
家へ帰った僕は暫し呆然としていた。
彼女と別れてから10分程度、部屋に入って腰を落ち着け、おもむろにスマホの電源をつけると彼女から連絡が入ってるじゃないか。
「デート、楽しみにしてる!だってよ」
また声だ。
僕は当たりを見渡すが、声の主らしき影は無い。
「ココだよ、ココ」
声はすぐ近く、僕の口元から聞こえてきた。
ふと思いついた僕が咄嗟にマスクを外すと、そこにはまるで人の口のような緻密な絵が描かれていた。
「やぁ、初めまして。俺は君の想いを代弁するマスクだ」
ほう、と。僕は頷く。
奇想天外な存在がすぐ目の前に居るのだから、驚くべきなのだろうが、残念な事に朝、洗面台で見た光景の方がよっぽど恐ろしかった。
「君はあのバイト先の子が好きだね?」
僕は頷いた
「ならば僕は君に力を貸そう。良いかね?」
マスクは僕にとっておきのデートプランを教えてくれた。
こうして、僕とマスクによる告白作戦が始まったのだ。
▶▶▶
デートはとても順調に進んだ。
映画館、古着屋に古書店とマスクの指示通り選んだお店は軒並み彼女に好評で、彼女の笑顔はより一層明るさを増した。
そして、トドメはオシャレなレストランでディナーと洒落込むのだ。
ここで僕がキザなセリフを決めて彼女を堕とす。そう言う作戦だ。
失っていた口も、今日の日の為か朝起きたら元の場所に収まっていた。
流石に物を食べる時はマスクを外さなければいけないから、こればかりは本当にラッキーだった。
事前に予約していた席に座り、マスクを外す、対面に座る彼女はどんな料理が出てくるのかとワクワクしている。
……それにしても、やけにマスクが静かだ。体調でも悪いのだろうか。
しかし、それを確認するよりも早く最初の料理が運ばれてきた。
それを皮切りに次々と料理が入れ替わり、とうとうラストのデザートまで来てしまった。予定ではココで僕は一発決める事になっている。
僕は咳払いを1つ、そして彼女の綺麗な目を真っ直ぐ正面から見つめ―――
声が、出ない。
口だけがパクパクと虚しく開閉している。
仕方ない、ココは作戦変更だ。と、マスクを取り出し、装着する。
後は彼が僕の言葉で……あれ、喋らない。うんともすんとも言わない。
訝しむ彼女をよそ目に慌てふためく僕は、近くのトイレへ駆け込み、物言わぬマスクを両の手で握り締めた。
彼が喋らなければ、僕は彼女に想いを伝える事は叶わない。
今日だって、マスクの用意した場所で用意したセリフを言っていたに過ぎないのだ。
何とか、一言だけでも喋ってくれと願いを込めて握り締めるが、思いは届かない。
諦めて、何とか自分の口から想いを伝えようと席に戻った。
彼女が居ない。先程までココに座っていたのに、忽然と姿を消してしまった。
近くを通った給仕に聞くと、まるで「魔法が解けたかのように」この場からあっさりと去ってしまったという。
その言葉で僕は全てを理解した。
あのマスクは僕の想いを代弁するのでは無く、願いを叶えるマスクだったのだ。と
だから迷惑な女性客はあっさり帰り、気のあった同僚とデートに漕ぎ着けれたのだ。
そして、マスクが何故、突如効力を失ってしまったのか。なぜ僕の口が帰ってきたのか……。
家に戻り、マスクの箱を持ち上げ裏面の一点を暫く見つめると、僕はため息を着いてマスクを放った。
「消費期限、か」
久しぶりに口にした、自分の言葉だった。
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