第一章 8

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第一章 8

 そんな祐樹の苛立った様子を眺めて新しい煙草に火を点けた黒木先生は、ふと思い出したように言った。 「そう言えば不思議な話がある。同じ学会に出席して、すっかり香川先生の腕前にほれ込んだ僕と同じポジションの日本人が居てね。その医師と学会の後で意気投合して色々電話やスカイプなどで話しをする友達になった」 「それで…」  黒木准教授が誰と友達だろうと知ったことではない。大学の内部の人間関係なら知っておく必要は有るが。  熱心に聞き入っているフリだけはしておく。 「香川先生を教授に招聘すべきだと、医学部長を兼任している上司を説得した。学会での様子を知ったその上司は一度、香川先生と交渉するためにアメリカに飛んだそうだ。運良くと言っては何だが、教授のポストがね、前任教授の悪性新生物(ガン)が見つかって空いていた。是非後釜にと、その友人は推したらしい。僕なんかと違って私利私欲のないヤツなんだ」 「先生は私利私欲のために香川先生に含むところをお持ちではないですよ。医局のために良かれと思ってらっしゃることはとても良く分かります。  しかし…、悪性新生物、いわゆる癌は今でも厄介な病気ですからね。早期に発見出来れば今は生存率も上がりましたが…全身に転移していると手術は不可能な病気です。」  慌ててフォローした。その話は実現しなかったことは今の状況からして容易に察することは出来た。 「それでかなり粘り強く説得をしたのだが、結局は断られたらしい。『権威にしがみ付くような人間では有りませんので』とはっきり言われたらしい」  大学教授は確かに権威だ。しかし、現在は、その「権威」に収まろうとしている。何故だろうか。 「失礼ですが、先生のご友人の大学が…香川先生の自尊心をくすぐらないといったレベルの大学だったのでは」  カルバドスで喉を焼かれる感触を楽しみつつそう言ってみた。 「とんでもない。本郷だよ」  日本一の大学病院だ。ちなみに二番手は祐樹の所属する大学だ。 「本郷ですか…。それは断ったのに、何故ウチに来る気になったのでしょうね」 「ああ、それは本人しか分からない」 「齋藤先生が買収でも…」  さすがに声を潜めて言った。 「それは無いだろう。香川先生はアメリカの心臓外科医のトップだ。おまけに日本のように保険制度がないので、患者は医師を選べる。香川先生が執刀医になってくれればいくらでも金を積むといった世界の富裕層が彼の手術を待ち構えている。  だから、約束した患者が終るまでは帰国出来ないそうだ。  給料も年俸制だし、恐らく金に糸目をつけない世界の富豪たちは、謝礼と称して個人的にもお金は渡しているはずだ」 「つまりなまじの金額では動かない人だということですよね。齋藤先生でも世界のセレブに敵うほどの金額は用意出来ないに違いないですよね。  心臓バイバス術は心筋梗塞を逃れる最後の手段です。狭心症もそうですが、これはコレステロールが血管に堆積して起ります。つまり美食に明け暮れているセレブ達は心臓病のリスクが高いですよね」  黒木が笑って答える。 「セレブ達は食事だけが問題ではないな。過度なセックスも心臓を傷める。彼らはお金に飽かせて好き放題だというのが常識のようだね…」 「そうですね。女性はお金持ちが好きですから」 「君も気を付け給え」  黒木が冗談めかして言った。 「私はセレブではありませんよ。研修医の給料は先生が良くご存知のはずです」  こちらも笑いながら反論する。   「君ならタダで交際してくれる女性が沢山いそうだからな」 「いえいえ、それが全然モテないですよ。第一そんな暇が有ったらオペの数をこなすとか論文を書いていた方が数倍マシな時間の使い方です」  黒木は親しみやすいとは言っても上司だ。上司に本音を告げるわけにはいかない――ましてや祐樹は特殊な嗜好も持っている――ので優等生的な答えでお茶を濁す。  しかし、何故香川先生は日本の最高学府ポストを蹴って、二番手のウチのポストには頷いたのか。謎は深まる。  直ぐに香川先生に関するデーターをネットででも調べてみようと思った。
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