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第一章 10
何故、香川先生の印象がないのだろう…所属大学の一学年の学生人数は100人程度だ。
しかも同じ研究室に所属していたら、絶対に顔を合わせているハズで…。研究室が同じという縁の飲み会も催される。祐樹は先輩との顔つなぎのためにほとんど出席していた。
それなのに、香川という名前は聞いたことがなかった…と思う。記憶力には自信があるので確かだとは思うのだが・・・。
そう思って自分の学生時代のことを思い出す。
医学部の学生は忙しい。特に解剖の授業になると、終るまで大学に居なければならない。
ある日、授業で教授に怒鳴りちらされ――といってもその教授は短気で有名だったが――ふと、誘われていた「グレイス」に足を運ぶ気になった。何よりもタダで酒が呑めるのが魅力的だった。その上自分と同じ嗜好を持つ人間が集まっているわけで、気分転換にはもってこいだろうと思った。
オーナーに渡された名刺を頼りに店を探したが見つからず――盛り場の雑居ビルは店を探すのに苦労する――見つからないと分かればどうしても行きたくなった。
名刺に書かれた電話番号に電話して詳しい道順を教えて貰う。
やっとのことで辿り着いた「グレイス」の扉を開けると、店に居た客達の殆どがこちらに視線を当てて来た。店に沈黙が広がる。
「学生の分際で場違いだったか…な。店を間違ったふりをして帰ろうか」
そう思った時に、1人の客がウインクしてくる。女装をすれば似合いそうな感じの人だった。つられて微笑むと、その人は立ち上がり自分の方へやって来た。
「このお店初めてよね。良ければ一緒に呑みましょう」
そう言い、手を握って自分の席に連れて行く。この店のルールが全く分からないので言うままになっていた。
その席は四人掛けで、自分が座れば丁度満席になる。
綺麗な人が2人とハンサムな男性が1人着席している。
「ここでは本名は名乗らないルールなの。それに店内恋愛も、ダ・メ」
先ほど自分を連れてきた綺麗な人が細身の煙草に火を点けながら言った。
「そうですか。でもどうしてこの席に御招待を」
アーモンド形の瞳をしたその人は答える。
「決まっているじゃない…貴方が若くてハンサムだからよ。一緒に楽しみましょう。店からレッドカードが出ない範囲内で…ね。アキって呼んで。」
そう言って微笑んだ。
他の二人も挨拶し、それぞれ仇名というか通り名を教えてくれた。
「僕はユウと申します。時々遊びに来ますのでどうか宜しくお願いします」
そう言って頭を深深と下げると、三人は感心したように呟いた。
「若いのに、礼儀正しい子なのね」
アキさんも嬉しそうに笑っている。
見回したところ、このバーはいわゆるニューハーフは居ないらしい。皆静かに飲んでいる。アキさんの視線が自分に絡み付いていることは自覚していた。
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